あとりえ透明3「絵美」
まさか自分が死ぬとは思っていなかった。いや、もちろんいつかは死ぬのだが、50代そこそこで彼岸の淵に立たされるとは思っていなかった。
少し思い出そう。
自分のこと。
妻のこと。
娘のこと。
笑のこと……絵美のことも少しは思い出そう。
罰が当たったのだろうか。
それほどのことを……いや、したのかもしれない。
癌だと言われた時は驚きや絶望よりも、この先どうしたものかということが頭をよぎった。
末期癌だという。
苦しんで抗癌治療をするならば安楽死をしたい。幸い重病者の安楽死は最近法律で認められた。
しかし俺が死んだら家族はどうなるのだろう。
妻も娘もいる。娘は数学の好きな子だ。できれば大学に入れてやりたい。
本職はしがない中学教諭……地方公務員だ。副業に熱中するあまり学校での地位は得られなかった。そのアドバイザーで稼いだ金もたかが知れている。貯金はそれほどない。
病院のベッドで預金残高を見ながら毎日ぼんやりとそんなことを考えていた。
そういえば昔、絵美に言われたことがあった。
「けんじさんはお金のことばっかり。もうお金のことを考えるのは嫌だよ」
そうだな。
しかし生きていくには金が必要なんだよ、絵美。
安楽死の承認書にサインをして、一週間の一時帰宅が認められた。
言うなれば温情。
『家族と最後の思い出を作れ』ということだった。
妻が俺の好きなものをたくさん作ってくれた。
なにが食べたいか聞かれ、カツカレーというと笑われた。
車椅子を押して、娘があちこちを連れまわってくれた。
どこに行きたいか聞かれ、千春の通う高校というとまた笑われた。
幸せなはずなのに、やはり心配が胸から消えない。
俺は妻と娘に頼んだ。
葬儀はしないでくれ。当分の間、俺の死を隠しておいてくれ、ということを。
妻の妹は松島朋だ。彼女に知られれば絵美に伝わるのも時間の問題だろう。それは避けたい。
繊細な前妻を傷つけたくないということもあったが、それ以上に理由があった。
病院に戻る前日、俺は長年閉じたままだったクローゼットの扉を開けた。妻にも娘にも隠してあった鍵付きのクローゼット。
そこには無数の絵があった。
絵美が……侑那絵美が中学から離婚までに描いた絵だ。売れなかったのを置いておいたもの。クロッキー程度のものから本格的な油彩まで様々なものが溢れ出すほどある。
信頼できる画商の知人に連絡を取り、近いうちに引き取ってもらうようにクローゼットの鍵と妻の銀行口座番号を書留で送った。
今は姿を隠した侑那絵美の作品だ。これで千春が大学に行く学費くらいには充分に届くだろう。
最期の最期まで俺は金のことばかりだ。
病院で薬を投与されて意識が徐々に遠のいていく。
最後に思ったのは
「ああ、絵美の絵が見たいなぁ」
俺はやっぱり愛していたのだ。
今際の際まで恋焦がれているのだ。
侑那絵美を。
絵美の絵を。
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