あとりえ透明「ニカワ」




「あーもうせいせいしたわ」
「ばーちゃん、不謹慎」
 夫の葬儀から帰宅した私は居間に喪服のまま寝ころんだ。孫の翔が呆れた口調で叱る。
「そうね、着替えないと。そうだ。服を買いに行きたいわ。あと家具も新しくしたいし、それからカーテンも私好みの明るい色にしなきゃ」
 我ながら人でなしだと思うが、夫が死んで晴々した気持ちになっている。
 葬儀は取材の方が大勢来ていたので悲しい素振りを一時もやめることは許されなかった。
「家具新しくするって、この絵の具どうすんの?運んだりするときは俺か父さんに言えよ。くれぐれも一人で重いもの……」
「分かってる分かってる」
「あ、絵の具処分するんなら当てがあるんだけどさ……」
 翔は携帯電話を触って、画面を見せて来た。
「おばあちゃん、そんな小さな字読めないわよ」
「行く気あるんなら俺が案内するって。『あとりえ透明』って言うんだけどさ」
 




「お邪魔しまーす」
「いらっしゃいませー。えーっとーいちかちゃんのおともだちのー」
「三上です。三上翔」
「みかみくん、いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませ、お連れ様ですか?」
 二人の女の子……といっても三十歳くらいだろうか……が出迎えてくれた。
 翔は以前に一度大学の友人に連れられてここに来たことがあると言っていた。
「祖母です。表に車止めてるんスけどいいスかね?」
「路上駐車はちょっと……すぐ傍にコインパーキングがありますので」
「あ、駐車じゃなくて画材持ってきたんです。買い取ってもらおうと思って」
「画材?」
「ウチの爺ちゃん、割と名の通った絵描きだったんですよ。この前死んだ森本史郎って日本画家知りませんか?」
「あ、ネットで見ました。でも割とお歳でしたよね。絵美さんも知ってるでしょ?」
「えーうーんー作品のタイトルとか分かるー?」
 頼りなさそうな女性が私に尋ねてくる。
「有名なのは『森の音』や『川面』が……」
「あー、あの天然顔彩が大好きなおじーちゃんかなー。何回か会ったことあるかもー」
「え?あなたは……」
「お気になさらず。それで買取と言うのはご主人様の遺品ですか?」
「主人なんて言わないでください!私はあの人の召使いではありません!」
 思わず声を上げてしまった。「主人」なんて呼ばれ慣れていたし、普段はこんなことで怒ったりしない。主人からの解放感のせいで反動が来たのだろうか。
「し、失礼しました。えっと…旦那様の…」
「すみません、主人で結構です。ええ、遺品です。私はあまり価値が分からないのですが、粉状の日本画の絵の具です」
「車はあちらですか?」
 黒いズボンの女性は翔の……正確には翔の父のものなのだが……灰色の車に目を向けた。
「ああ、そうス。ワンボックスいっぱいに詰め込んできたス」
「拝見します」
「岩絵の具かなー砂絵の具かなー鉱物だったりするとステキだなー」
 短い黒髪の女性の後ろを追ってピンクのワンピースの少女が歩く。翔が車の大きな扉を開けた。後部座席には息子に積んでもらったありったけの絵の具が入っている。軽く千種はあるだろう。
「うわー、山積みになってるー。よく積んだねー」
「崩れませんか?」
「父さんにロープで固定してもらったんで大丈夫ス」
 長い髪の少女が容器の一つを手に取った。
「年代物かなー、ガラス瓶だねー。うーん、容器だけじゃメーカーや種類分かんない。朋ちゃん開けてー」
「全く、そのくらい自分でやりなさいよ」
 文句を言いつつも短い髪の方が片手に乗る小さな瓶の蓋を開ける。
 長い髪の方が瓶の粉を指先でつまんだ。途端に眉間に皺を寄せ、少し悩んだ表情を浮かべる。
「あー、これ買い取るのむつかしいなー」
「え?古いからですか?」
 私は慌てて口を挟んだ。そこそこの画家だった夫がいつもどこかから取り寄せては使っていたものだ。てっきりいい銘柄のものだと思っていたが……。
「うーん、これ自分で配合してるんだー。鉱石と砂と泥とちょっと砂金も入れてるねー。単純にお金はかかってるんだけど、いい材料を自分の使いやすいためだけに自分で作った感じでー、逆に本人以外は使いにくいっていうかー」
「絵美さん、古物商でも買取は無理?」
「古物商っていうか宝石……いや、でも砕いて混ぜてるから取り出すのは無理かなー。ミルクティーからミルクを取り出すのは無理的なー。うーん、あたしも使うのむつかしいなー。使えるとしたらただ一人……」
 少女は私に視線を向けた。
「おばーちゃんかなー」
「え?」
 




 私は絵が嫌いだ。
 嫌いどころではない。憎んでいる。
 夫は結婚した時は軍人だった。当時、軍人とは花形の職業で誰もに羨まれた結婚だった。
 しかし、結婚後、すぐに戦争は終わった。終戦後も公職に就くことは出来たが、戦争で両親も兄弟も失った夫はそれを選ばなかった。
「画家になる」
 食料もままならない時代に、突然かなり大きな額の退職金を叩いて外国人から画材を買い込んで来た。
 乳飲み子を抱えた私は呆気にとられた。時代が時代なら離婚届を突きつけていたところだろう。夫への愛情も潮が引くように一瞬で冷めてしまった。
 私は内職やら知人の家事手伝いで日銭を稼ぎ、夫はキャンバスに向かって毎日訳の分からない絵を描き殴っていた。
 夫の絵が初めて小遣い程度のお金になったのは絵を描き始めて五年が過ぎた頃だった。
 家計はもちろん火の車だった。私は家事と子育てをしつつ、家計のやりくりをし毎日を生きるのに必死だった。
 普通の会社員程度の月収が毎月入るようになったのは子供が公立の大学に奨学金で入った頃だっただろうか。
 ある時、突然『アトリエ』と称した離れから異臭がした。死んだ動物を焼くような据えた臭い。私はついに夫の気が違って人でも殺したのかと思って、立ち入り禁止と固く言われていた『アトリエ』に飛び込んだ。
「ニカワだよ。日本画を始めようと思ってね」
 夫は『アトリエ』に入ったことを咎めもせず、異臭の漂う部屋にコンロを置き小さな鍋で何かを炊いていた。
 ニカワは動物の皮や骨を使った粘着剤だ。水彩画は水で溶くように、日本画はこれで絵の具を溶くのだと夫は悪びれもせずに伝えた。
 貧しさだけでなく、異臭にも耐える毎日だった。
 しかし数か月後だった。夫が数百万円の小切手を私に手渡したのは。
「絵がまとめて売れたんだ。これからは日本画でやっていくよ」
 森本史郎が有名になるのにさほど時間はかからなかった。あれよあれよといううちに私は文化人の妻になった。
 しかし、お金が入れば入るほどニカワの臭いは私の身について行った。どんな美味しい夕飯を作っても、どんなきれいな花を活けても我が家に蔓延するのはニカワの臭い。
 結局、私が夫を再び愛することはなく夫は往き、遺されたのは大量の小瓶に入った絵の具だった。
 彼が何故突然画家を目指したのか、どうやって絵を売ったのか、知る由もなかったし、知りたいとも思わない。
 ただ、私は絵が何より嫌いだ。
 




「この絵の具はねー。臭いに慣れてる人じゃないと使えないと思うんだー。朋ちゃん要らない鍋あるー?小さいのー。あとカセットコンロー」
「はいはい」
 黒髪の女性は一階の奥に入って行く。
「で、おばーちゃんとみかみくんは二階ー」
 私が杖をつきながらヨロヨロと階段を上る。やっと二階に着いた時にはコンロと鍋を持った黒髪の女性が後ろに立っていた。
「おばーちゃんー。知ってるかもだけどーこれがニカワねー」
 長い髪の女性は黄土色で半透明の板を取り出した。私も炊く前のものは初めて見た。女性は鍋にそれを放り込むとコンロの火をつけた。数分も経たないうちに鼻につく臭いが立ち込める。
「ち、ちょっと!何この臭い!?換気扇!」
 短い髪の方が慌てて窓を開けて、換気扇を回す。
「ぐつぐつぐつぐつ、焦げないように三時間くらいかきまぜつづけてー」
「三時間!?その間待つの!?」
 短い髪の女性が声を上げる。
「でしょー。立ちっぱなしでしんどいしー忍耐力もいるーそして何よりーニカワが完全に溶けきらないうちに描かなきゃならないからスピーディーに描く力量もいるーそこで現在は便利なものがありますー」
 長い髪の少女が火を止め、棚から円筒型の容器を取り出した。
「顔彩用メディウムっていいますーこれがニカワの替わりになりますーでもこれには唯一の欠点がありますー」
「欠点?」
「ニカワより臭いがきついですー」
「げ!?」
 少女は笑って蓋を開けた。
 ニカワの臭いではない。シンナーの強い臭いが立ち込める。翔と黒髪の女性は鼻を覆って後ずさった。しかし、動物臭くない分、ニカワに比べればなんてことはない。
「これをーおじーちゃんの作った絵の具と混ぜますー」
 小皿に絵の具を開け、メディウム、と言っただろうか。ドロッとした透明の液体と混ぜる。
「後は筆でー……」
 机の下から葉書大くらいのキャンバスを取り出すと器用に塗って行った。短い髪の女性が筆洗と小皿を数枚机の上に並べる。最後に大きなペットボトルに入った水を少女の横に置いた。
 少女の目からさっきまでの無邪気な気配は消え、ひたすらキャンバスに向かって筆を乗せ続ける。
「C60M20Y20K00」
 何かつぶやいたと思うと黒髪の女性は一階に戻り、すぐに瓶を抱えて戻って来る。その中から濁った青紫の絵の具を差し出した。
「C00M60Y80K00」
 また車に戻って今度は橙色の絵の具を蓋を開けて差し出す。どうやら少女の言うアルファベットの羅列は色を表しているらしい。
 何度かそれを繰り返すのを、私と翔は椅子に座り黙って見ていた。
 小一時間経っただろうか。少女の周りには瓶の山ができていた。
 筆を置き、大きく深呼吸する。そして自分の横にある水を手に取ると、お酒でも煽るように一気に飲み始めた。三口四口でペットボトルは空になる。
「絵美さん、飲む量だんだん増えてるけど、そんなに水飲んで大丈夫?」
「大丈夫だよーはい、これおばーちゃんにー」
 私は我と我が目を疑った。
 そこに描かれた絵は……
「『森の音』……」
 夫の代表作そのものだった。
「おばーちゃんも描こうよー。おじーちゃんの絵、全部見て来たんだからできるってー」
「私は……筆を握ったこともなくて……何より絵が嫌いで」
「嫌いなのー?」
「そうです!大嫌いです!絵に半世紀以上縛られて、ようやく解放されたんです!あなた、こんな立派な模写ができるんなら、あなたが絵の具引き取ればいいじゃないですか!」
「うーん、でもねー……」
 少女は腕を組んで考え込んだ。
「絵に嫉妬しちゃ絵がかわいそーだよー。絵はなーんにも悪気ないんだからー」
 嫉妬?
 そんな、私はただ
「困るわねぇ」
 キャンバスでなく、私を見てほしかった。
「絵を始めるのに九十二歳は遅すぎるかしら」
「早くはないねー。でもこの絵の具はおばーちゃんが使ってあげないとかわいそうだよーそれにー」
 少女は小首をかしげた。
「おじーちゃんは幸せ者だったねー。おばーちゃんみたいな奥さんがいてー」
 




「ありがとうございました。今度は絵の描き方を教わりに来ていいですか?」
「勿論です。いつでもいらしてください」
 黒髪の女性が深く頭を下げる。
 結局絵の具は持って帰ることになった。メディウムというのを一つ売ってもらい、会員証も作った。
 ゆっくりと手すりを持って階段を下りる。翔が先に外に出て車を準備してくれている。後ろから長い髪の方の少女が降りてきた。
「おばーちゃん、気を付けてねー。この階段結構急だか……ら……」
 何故その時少女が足を踏み外したのか、私には分からない。
「絵美さん!」
 彼女は受け身も取らず、頭から一階に落ちて行った。



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