あとりえ透明「木炭」




 こんな中途半端な時期に転勤とは自分もついていない。転勤先も自宅からさほど離れていないので、引っ越さなくてよかったことだけは幸いだったが。
 六月と言うのはこの業界では多忙な月だ。ジューンブライドとやらで結婚式が多く行われ、それに触発された主に女性が事務所に飛び込んでくる。
 そもそも自分はいつまでこんな馬鹿馬鹿しく不毛な仕事を続けるつもりだろう。






「お待たせ致しました。新しく担当になりました、澤薫と申します」
「澤……会長……?」
「……えっと……あ、松岡さん!」
「松島です!松島朋!そこのカルテに書いてるでしょ!」
 グレーのワンピースを着た顧客の女性を正面から見て、初めて思い出した。高校の同級生だ。同じクラスになったことは多分ない。美術部の会計だったと思う。予算折衝の時にやけにしっかりした予算計画を立てていたことしか覚えていないが。
 高校では自分は生徒会長だった。しかし、特に成績が良かったわけでも人望があったわけでもない。半ば押し付けられるような形で立たされたお飾り会長だ。
「いやー、松島さんが結構相談所に来るとは思わなかったよー」
「ていうか何で三ヶ月で担当が変わるの?」
「この会社では三ヶ月経って結婚の兆しが見えない人は担当がベテランになるんだよ。正直に言えば厄介さアップっていうこと」
「厄介……」
 黒髪ショートカットの彼女は敵意むき出しで睨んでくる。
「松島さんは見た目若いし、人当たりも悪くないし、何でこんなに長引くかなー。やっぱり理想が高すぎるのかな」
 初めて顔を合わせた顧客にここまで率直なことは言わないが、知り合いならいいだろう。
「うるさい!」
「だって職業がショップ店員って、しかも年収手取り百二十万ってバイト?」
「バイトじゃないわよ!むしろ名義上は私が店長!勤務時間が少ないからそういう契約になってるだけ!」
「店長か、従業員は何人?」
「う……私ともう一人だけ……」
「二人で店回してるの?それ結構忙しいんじゃない?」
「オープンしたばっかりでお客さん少ないから……」
「はいはい、でショップってアパレル?」
「カフェ……」
「カフェならそれをもっとアピールすればいいのに。料理好きだと思ってもらえるよ」
「私は料理しないから……」
「もう一人が厨房担当で松島さんはフロア?」
「厨房……ていうか料理も接客ももう一人が大体やってるような……」
「へ?もう一人は女性?」
「うん……澤会長……じゃない、澤くんも知ってる人……」
「え、誰?」
「絵美さん……って覚えてる?」
 




 自分が絵美さんの存在を知ったのは高校一年の五月だった。
 何やら美術室に大手の新聞社から取材が来てるらしいと物見遊山に行ったのが最初だった。取材対象はてっきり部活動そのものか先生だと思っていた自分には美術室の真ん中で一人はにかんだ顔で写真を撮られながらインタビューに答える栗色の柔らかい髪の少女はひどく印象的だった。
 穏やかで洗練された物腰で、しかしどこか幼さを残したその風貌に胸が高鳴らないはずがない。自分の周りで美術室の窓に群がっていた大半の男子生徒は同じ気持ちだっただろう。
 




「その横に私いたんだけどね。美術部だったから」
「忘れちゃった。ていうか知ってすらいなかった」
 松島さんとの偶然の出会いから三日。松島さんに駅まで車で迎えに来てもらい「あとりえ透明」に押し掛けてみた。白いワイシャツにスラックスの松島さんは自分を降ろして月極の駐車場に向かう。
「さわくん久しぶりだねー。同窓会のときはあんまりしゃべれなかったもんねー」
「絵美さん、お邪魔します」
 半年ぶりに会った彼女は相変わらずふわりふわりとした仕草で自分に向かって踊るような足取りで近づいて来た。
「いらっしゃいませー。ともちゃんと偶然会ったんだってー?びっくりだよー」
「本当にビックリしたわよ」
 裏口から入って来たのだろう。店の奥から松島さんが現れる。
「ともちゃんー今日は土曜だから、あいりちゃんもおねーさんと来るってメールあったよー」
「了解。金崎さんは多分画材の方ね」
 松島さんが手早くエプロンをつけ、何かをタブレットに打ち込むと同時にカウベルが鳴った。
「あ、もうお客さん来てる」
 大学生くらいのラフな格好の少女が、Tシャツにジーンズの男性を二人連れて現れた。
「一花ちゃん、彼氏?彼氏?」
「二人彼氏を連れて来るわけないでしょ!」
「こちら、軽音サークルで仲良くなった先輩です。ここのこと話したら来てみたいって。背の高い方が小野先輩、中学の時漫研だったそうです。金髪の人が三上先輩、こちらは絵は全く初心者です」
「ども」
「ちわーす」
「いらっしゃいませ」
 松島さんが深々と頭を下げる。
「二階へご案内いたします」
 二階は大きなテーブルが一つしかなかった。お互いが気にならないほど距離は離れているが、大学生三人と相席か。
「さわくんはランチー?」
「うん、でもまだちょっと早いかな……」
「じゃあねーじゃあねー絵を描こーよー」
「いや、俺絵は描いたことないから。高校の選択も書道だったし」
 時計は十時を回ったところ。朝食をしっかり食べたこともあり、まだ空腹は感じない。
「高見原さん達はどうされますか?」
「画材とか触っていいスか?なんか面白いの」
「面白いのかーじゃあねーえっとねー」
「うわ、珍しい。人いっぱいだ」
 階段を上がって来たのはパーカーを着た中学生とチュニック姿の大学生の女性二人連れだった。
「めずらしいってーしつれいだなーあいりちゃんー。そっちがおねーさんー?」
「初めまして、妹がお世話になってます。金崎由理です」
「これ席たりるー?」
「一応八人掛けなので大丈夫。うーん、やっぱりもう一つテーブル買い足そうかなぁ。場所は余裕あるんだし」
「じゃぁーせっかく男手もあることだしー机動かして皆でお絵描きしよー」
「ちょっと!絵美さん、お客様を!」
 絵美さんの思いつきを松島さんが止めに入る。
「何か力仕事スか?」
「いいスよ。俺サークルで重いもの動かすの慣れてますから」
 男子大学生二人が笑って立ち上がった。
「えっとねーこの机をねーズズズーと部屋の端まで動かしてほしいのー」
「お安い御用ス!おい小野、そっち持て」
 小野君と三上君が大きな机を持ち上げ運ぶ。どうやら大学生の前では三十歳近い自分は男手にカウントされていないらしい。
「でー、椅子を七つ円形に並べてーあーあたしとともちゃんの分も入れてだからねーでーひとつ真ん中に置くのーともちゃんーパンー」
「八人だったら……二斤でいいわね」
 返事も聞かずに松島さんは階下に降りて行く。絵美さんは棚からビニール製のエプロンと長い鉛筆の芯のようなものを取り出した。エプロンを全員に配る。エプロンを皆がつけるのを待って、机の下から大きな紙を出し、数えながら画板と一緒に七枚ずつ自分たちに渡した。
「うわっ、これスゲー手汚れる!」
「炭じゃね?」
 一緒に芯のようなものを受け取ると男子大学生が声を上げた。
「木炭だよーこれを鉛筆代わりにするのー男の子だと力入れると折れちゃうからねー」
 松島さんが食パンの袋を抱えて戻って来た。袋からパンを一枚ずつ出して手渡して行く。
「これ、古くない?パサパサになってる」
「新しくは……ありませんが、バターをひかえて作ってるんです。バター分の多い市販のパンは脂っこくてデッサンには向かないので」
「作ってるの?」
「ホームベーカリーだよー」
「材料放り込むだけですぐに作られるんです。デッサン用だと多少古くなっても構いませんからこの時季でも作り置きできます」
「てことはこれ食べねーの?」
「はい。消しゴム代わりです」
「で、何するの?」
 絵美さんが松島さんを指差す。
「ともちゃんが一番手ねー」
「全く、仕方ないわね」
 松島さんはシャツの襟を整えると、真ん中の椅子に座ってシャンと背筋を伸ばす。
「じゃあねー、今から制限時間十五分の人物デッサンを始めますー。十五分ごとにモデル係が交代するのー」
「え?ちょっと、自分絵の描き方とか……木炭って……」
 先に言った通り自分は絵は中学の授業で描いて以来だ。棒人間すらまともに描けるか怪しい。まして、絵美さんのような絵の大豪の前で描く絵など……。
「別に採点するわけじゃないから大丈夫だよー。木炭が鉛筆、パンが消しゴムって思ってー。八人で十五分ずつ描いたらちょうどお昼時になるよー」
「これってどっちが持つ方?」
 男子大学生……三上君の方……が不思議そうに木炭を見つめる。
「あははー面白いこと聞くねー。そんなのどっちでもいいんだよー。えっとねーシャーペンの芯の太いのをシャーペンなしで描くと思っていいかなー。パンは一口大にちぎってこするのー。ほら二分経ったよー」
「あ!なんかスゲー太い線になる!」
「力入れすぎー」
「ていうか、これパンで全然消えないし!不良品!?」
「不良品じゃないってー。パンはどうしようもなく失敗した時にーちょっと薄くさせれる感じー」
「最初にそれ言ってくださいよ!」
 松島さんは膝に手を置いたまま必死で笑いをこらえている。その顔が冷静な松島さんらしくはなく、自分も吹き出してしまった。
「なんかさ……こういうの……」
 一斉に自分に視線が注がれるが、気にならない。
「部活みたいで懐かしい」
「あ、次のモデルは澤くんね」
「ヌードになる?」
「え!?」
 自分は言葉を失う。
 




「絵美さん、今日のランチセットは?」
「うーん、つかれたから、ともちゃんにおまかせー」
「まったく。レシピは置いてあるんでしょ?」
「うんー、材料も揃ってると思うよー。食後のカフェラテは煎れるからー」
 松島さんが慌ただしく階段を下りて行った。
「いいの?絵美さん」
「うーん、運ぶのは手伝うからー。飲み物は皆何がいいー?」
「えっと…何があるんですか?」
「カフェラテとねーカフェラテとーカフェラテとー」
「あーあーあー!要は一通り何でもあるけど、カフェラテはラテアートのサービスがあるのでオススメってことです!」
 本来はここは松島さんの役目なのだろう。『一花ちゃん』が慌ててフォローを入れた。
 しばらく皆でさっき描いた絵を見せ合って笑い合っていると、階下から絵美さんを呼ぶ松島さんの声が聞こえた。小走りに下りる絵美さんを待って、男子大学生が目配せで立ち上がり、テーブルを元に戻す。
 絵美さんと松島さんがプレートとスープカップ、ナプキンやナイフフォークの入ったかごを持ってくる。松島さんが丁寧に並べて行った。四角い白いプレートに鮭ときのこのソテー、サラダ、パン。別のカップにクリームスープが注がれている。
「え?このパン焼きたて?手作り?」
「うわぁ、ホクホク」
「中に入ってるのくるみと…ハーブ?」
「さっきのデッサン前に仕込んでおいたんです。ハーブは自家製です。お気に召していただいて幸いです」
 松島さんは幸せそうに笑う。
「ともちゃんはお料理できるのにしないから勿体ないよねー」
「絵美さんのレシピがないと何も作れないから」
 自分は松島さんを手で招くと耳打ちした。
「松島さん。プロとして言わせてもらうと、やっぱお前結婚無理だわ」
「え?な、なんでよ!?」
「だって、お前の理想ってさ……」
 自分は顔を紅潮させる松島さんをチラッと見てため息をついた。
「絵美さんじゃん」



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