天球儀 其の零 ep.7 九月「天秤座の混乱」




 どうしてだろう。
 どうして俺は好きになってもらえないのだろう。
 当たり前のように好きだった。
 愛していた。それが当然で必然なのだから。
 俺の傍には沙羅がいて
 でも沙羅は俺を見ようとしなかった。
 どうしてだろう。
 
 
  
「多分ね…せーちゃんは近すぎたんだと思う。私と近すぎたんだと思う。恋人って言うよりお兄さん…誕生日は私のほうが先だから弟かな。とにかく家族みたいな感じ…」
 
 
 本当にどうしてなんだろう。
 
 
 
「小紫、どうしたんだよ!?その怪我!」
 取石の家の玄関を開けて開口一番葵は声を上げた。夜とは言えかなり暑いのに沙羅は長袖にくるぶしまであるロングスカートを履いている。しかし、頬に大きくできた痣は隠せない。
「うん…ちょっとね…転んで頭打っちゃった。ちょっと家に置いてくれないかな…椿ちゃんいる…?」
「ああ、今呼んでくる」
 葵は慌てて沙羅を居間に通すと、二階に駆け上がった。
 程なく、椿が姿を現す。椿はその姿を見て、俯いてソファに座る沙羅に走り寄った。
「小紫さん、ちょっと私の部屋にいらしてください」
 沙羅は黙って頷き、ヨロヨロと立ち上がった。その肩を支えながら兄に「ついてこないで」ときつく言った。
 
 
 椿の部屋はこじんまりとした和室だった。殺風景といえばそうだが、必要最低限のものしかなくよく整頓されている。
「えっと…小紫さん、聞きにくいんですが……そういうことですね?」
 沙羅は小さく一回頷く。
「ご自宅で?」
「…せーちゃん…」
 ポツリと声を絞り出した。
「せーちゃんね、週に2回くらいは家に来るの。お父さんから様子を見に行くように頼まれてて…そういうのされるのはしょっちゅうなんだけど…今日みたいに意識がない時にされるのは初めてで…辛くて…」
 当然のように言う沙羅に椿はひどく困惑した顔を見せた。
「え……ちょっとどこから怒ればいいのかわからないんですが…と…とりあえず剣さんは今どちらに…?」
「家に帰ったと思う…」
 その言葉に椿は頷く。
「分かりました」
 言って立ち上がるとツカツカと歩き、部屋の襖を勢いよく開けた。
「分かりましたね。お兄様。今回に限り、お父様の名前を汚さない程度でしたら何をしても私が許します」
 そこに立っていたのは葵だった。
「ああ」
 葵は悪びれもせずに頷く。そして踵を返すと階段を駆け下りた。それを見送ると椿は振り返って微笑んだ。
「大丈夫ですよ。小紫さん」
 沙羅は呆然とそのやりとりを見ていた。
「お兄様は私のお兄様なんですから」
 
 
 
 誰にも言わないように、と椿に堅く言われ、沙羅は頷くしかできなかった。
 椿の部屋に布団を二組敷き二人で並んで眠る。
 葵は帰ってこなかった。
 布団の中で眠れないでいると椿がひとりごとのように言った。
「小紫さん、今回の件、気にしないでくださいね。でも…1つだけお願いしてもいいですか?」
「な…何?」
 一瞬の沈黙の後で椿は呟く。
「私に何かあってもお兄様のこと支えてあげてください」
「それって…」
 沙羅が言いかけた瞬間、玄関が大きな音を立てて開いた。
「おじゃましまーす。椿ー!椿、いるー?ちょっとヘルプーヘルプミー!」
 高い女性の声だった。沙羅と椿は飛び起きる。
「滋ちゃん、譲くん!」
 玄関から母親の叫ぶような声が聞こえる。
「おばさん、ちわーす。こいつ届けにきましたー」
 譲と滋に両方を抱えられるようにして足を引きずって玄関をくぐったのは、傷だらけになった葵だった。
「お兄様!」
「ち、血が…!」
 葵の左太ももに包帯が巻かれ、血が滲む。
「ったく、あいつ手加減ねーな…」
「病院は行かれたんですか!?」
「そんな大した怪我じゃねーって。とりあえず滋ちゃんに電話して看病してもらった。滋ちゃんマジ愛してる!」
「だーかーらーお前はーなんで俺じゃなくって滋に電話するのかなー。滋が困るだけじゃんかー」
「そりゃぁ、死の瀬戸際で一番聞きたいのは愛する美女の…って、譲!痛い!足踏んでる!死ぬから!マジで!やめてください!お願いします!」
 譲は投げ出すように葵の体を放り出す。
「とりあえず…2階…は無理ですね。客間にでも布団を引いて……」
「わ、私行きます!」
 沙羅が慌てて客間に走っていった。
 
 
 
「で、だ」
 せめての気休めにと市販の鎮痛薬を飲んで包帯を巻き直すと、五人は客間で輪を作った。
「どういうことだよ」
「刺された。けど刺し傷以外は剣にボコボコに殴られた」
 太ももの傷を指さして悔しそうに葵は言う。
「?てことは刺したのは……」
 譲は目を丸くした。
「剣……と言いたいところだけど違うんだよな。俺が剣をあいつの家の前の公園に呼び出して殴り合いしてたら後ろから刺された」
「立派な通り魔じゃないですか!それって!」
 椿は声を上げる。
「それがなぁ、顔隠してたからわからないんだよ。所謂中肉中背だったし」
 葵は首をひねって考えこむ素振りをしていたが、すぐに疲れたのか横になって眠ってしまった。
 
 
「ちょっと、それって警察沙汰じゃない!なんで通報しなかったのよ!?」
 十二宮室で松葉杖をついた葵に向かって玲奈は怒鳴り声を上げた。
「いや、そんな大したことじゃねーだろ。ちょっと刺されただけだって」
「ちょっとじゃないよー、葵ー。結局あの後痛がって救急病院行ったじゃんかー」
 葵の言葉に譲が苦笑する。
「え?それって大事じゃん?!で、犯人さんは刺した後逃げたの??だったらマジ警察モンだし?」
「一応、全員に集まってもらったのよね。蛇遣い座の館林くんは連絡つかなかったんだけど」
 玲奈は大仰にため息をつく。
「剣クンは?刺された時にその場にいたんスよね」
「おかしいですわね。で、その剣君はいらしていないと」
 久都凛子が一歩前に出た。
「久都さん、芽芽君は何て?」
「えっと……夏休みに入った頃から連絡がなくて。何か忙しいようでメールにも返事がないんですの」
「そもそも芽芽クンってどこに住んでるんスか?通信ってことはこの近所じゃないスよね」
 暁子が尋ねると凛子は答えにくそうに目をそらした。
「それは…」
 その時だった。
 十二宮室の扉が開いたのは。
 制服姿の剣斉太郎が右腕に包帯を巻いて入ってくる。
「悪い。病院行ってたら遅れた」
「え?」
 悪びれもせずに言った斉太郎の言葉に場が一瞬で凍りつく。
「剣、テメェふざけてんのか!?昨日確かに…!」
「はぁ?何がだよ?お前こそその足どうしたんだよ?」
 葵と斉太郎が向かい合う。
「あーあー、剣くん、取石くん。ちょい落ち着いてもらえますか?」
 間に入ったのはミナトだった。
「取石くんの怪我を実際に見た人、挙手してください」
 譲と沙羅が黙って手を挙げる。
「あー、あと俺と葵の妹も見てますー。病院の診断書も何ならもらってこられるかもー」
「でですね、剣くんはどうですか?」
 裁判官のようにミナトは淡々としゃべり続ける。
「それは…」
 斉太郎は口ごもる。
「いないんですねー」
 ミナトはため息をついて周囲を一瞥した。
「まぁ、いいところで自分で手首を軽く切った上から包帯をしたってところでしょう。疑わしきは罰するのがミナトのポリシーです。というわけで、剣くん…」
 ミナトは棚から一枚の書類を取り出した。
 十二宮生徒会役員停退学届だ。
「これで白黒つけましょうか」
 斉太郎の表情が凍りつく。
「全員のサインが回るか回らないか」
「俺がサインしなきゃ受理されないだろ!」
「誤解しないでください。これはあなたを退学させるための手続きじゃないです。あなたに罪があるかどうかみんなが認めているかを試すテストなんです。あなたがサインするか、正式に受理されるかはさほどの問題じゃない。まぁあなた以外の全員がサインした時にあなたがどうするか……いや、どう思うかは自由ですがね」
 言うと、ミナトはサラサラと自分の欄に名前を書いた。
 斉太郎とは逆方向に順に回していく。
 全員が一瞬ためらいながらもゆっくりと名前を書いていく。
 広い部屋にボールペンが机を叩く音が響く。
 それが止まったのは、沙羅の前に紙が置かれた時だった。
「私は…サインしません」
 視線が一斉に沙羅に注がれる。
「私は…こんなのおかしいと思います。せーちゃんがどうして退学しなきゃならないんですか?」
「小紫ー。君もさー、葵の怪我見ただろー。逆に何でそうまでしてかばわなきゃいけないのー?」
 譲が呆れたようにヒラヒラと手を振る。
「だったら、警察とか!学校とか!もっと調べてからでも遅くないじゃないですか!何でそんなに結論を急ぐんですか!?そんなに性急にしなくてもいいじゃないですか!これが取り返しの付かない間違いだったらどうするんですか!?皆さん、考えないことに慣れて…考えることを放棄しないでください!」
 顔を真っ赤にして声を荒らげた。
「だって…せーちゃんの怪我は本物です!」
 沙羅は涙を浮かべて叫ぶ。
「私が今朝やったんです!」
 全員が顔を上げる。
「沙羅!黙れ!」
 斉太郎が立ち上がったが間に合わなかった。
「取石くんが刺されたのはせーちゃんのせいだから、じっとしていられなくて!私は糾弾されるのも捕まるのも覚悟だったのに!でもせーちゃんは私のせいだって一向に言わなくて!何で…何で…」
 言葉に詰まり俯いた。
「す、すみません…」
 鞄を手に取ると走って部屋を出て行った。それを追ったのは、斉太郎より足に怪我をしている葵のほうが早かった。
「小紫」
 呼び止められるが、足を止めない。
「小紫!」
 葵は沙羅の小柄な両肩を抱きしめる。
 しかし、沙羅はそれを振りほどいた。
「ダメだよ…取石くんは…葵くんは私なんかと一緒にいたらダメになる」
 それはせーちゃんならダメにしてもいいという私のわがまま。
「滋ちゃんがきっとすごくすごく辛くなる時が来る。辰哉くんと椿ちゃんの結婚式かもしれないし、ひょっとしたらもっと早くもっと辛いことがあるかもしれない」
 沙羅は涙を浮かべた目で微笑みを作った。
「その時、誰かが傍に居てあげなきゃダメだよ。家族の他に大切にしてくれる人がいないのは本当に、ほんとうに辛いから。だから葵くんは滋ちゃんの傍にいてあげて」
 そして軽く手を握った。
「無理して私なんかを好きにならないで。何があっても滋ちゃんを想っていてあげて。私は大丈夫。大丈夫だから。だって」
 せーちゃんは傍にはいてくれるんだよ。
「一人じゃないから」
 それがどんな形でも傍にはいてくれるんだよ。
 
 
 
 卒業したら、葵くんとはもう会うこともないだろう。
 葵くんは滋ちゃんと結ばれればいい。
 そして、私はせーちゃんと暮らすのだ。
 私は一生夢に見るのだろう。
 葵くんと笑う夢。
 葵くんと泣く夢。
 葵くんに抱きしめられる夢。
 そして、目が覚めると、隣にせーちゃんがいる。
 きっとそんな一生を過ごすのだ。
 それでいい。
 それでみんなが幸せになれるなら。
 それで誰も不幸にならないのだから。
 

 そんな幸せなことは他にないじゃない。



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