天球儀 ep.4 六月「蟹座の幸福」




 中間テストが終わり、衣替えも終わり、梅雨がその兆候を見せだしていた。
 十二宮は楷明大とその附属高校で初夏に行われる文化祭の準備で慌ただしかった。蛇遣座の高坂南も十二宮室に加わって書類に追われている。
 しかし、観月祐歌はインターハイ予選に向けてソフトボール部の練習に熱を入れており、ほとんど十二宮室には顔を出さなかった。







「部長ー!ボールが足りません」
「お前ら大事に使え言うたやろ!しゃーない取ってくるわ!」
「すみませんー!」
 ユニフォーム姿で祐歌は校庭と校舎の間にある木造の第三体育用具倉庫に向かった。
「たっしか、ここならボールの一つや二つ…」
 窓も照明設備もない倉庫に、備え付けてあった懐中電灯であたりを照らし探す。
「おっ、あるやんか。しかもカゴいっぱい。おったからおたから」
 嬉しそうに両手で自分のウエストサイズくらいはありそうなカゴを取り出す。
 そして一旦カゴを置いてドアを開けようとすると、開かない。おそらく乱暴に閉めた拍子に扉がゆがんで開かなくなってしまったのだろう。
「み…密室?」







「第三体育用具倉庫の扉の建付けが悪くなってる件?」
 まゆりは申請書を読み上げて、首をひねった。
「第三体育用具倉庫なんてあったっけ?」
「ありますよ。ほら運動部室棟に行く途中に木製の小屋みたいなのがあるでしょう」
 リョウスケがフォローを入れる。
「あ、あれ体育倉庫なんだ。でもなくなっても困る?第一と第二に詰め込んじゃえばいいし…。こういうのは体育委員と美化委員の管轄よね。どう思う、永戸さん、加藤君?」
「事故とか起きないうちに取り壊したほうがいいんじゃね?」
「右に同じ。どうせ運動部の私物しか置いてねーんだし」
「じゃあ体育科の先生に申請、と」
 まゆりは判子をペタンと押した。その途端、十二宮室の扉が大きく開かれた。
「せ、先輩!」
「誰ですか?騒々しい」
 突然飛び込んできたのは紺のセーラー服を着た女生徒二人。二人とも息を切らしている。桂子が眉間にしわを寄せる。
「それどころじゃないんです。妹尾先輩!」
「え?俺…ってまさか!」
「大変なんです!辻先輩が美術室で…!」







「夏希!」
 美術室に駆け込んだ妹尾亮良とまゆりが見たのは壁中に色とりどりのペンキが飛び散った異様な光景だった。
 その中心にいるのが辻夏希。
「せ、妹尾先輩…」
「またいつものですか?」
「え…ええ……文化祭の準備していたら突然……」
 いつもどおりの無表情のまま、ありったけのペンキを白い…いや、白かった壁にぶちまけている。ほかの美術部員は恐る恐る窓ガラス越しにそれを覗きながら固まっていた。
「やめろ!夏希」
 亮良が夏希の両手を押さえる。真っ白な制服に緑の絵の具がかかるが気にもしない。
「うるさい じゃま するな」
「夏希!」
「はなせ あきら」
「またお父さんに怒られるぞ!『俺が』」
 その一言でピタリと体が動かなくなった。ペンキのバケツが派手な音を立て床に落ちる。
 かと思うと電池が切れたように亮良の腕の中に倒れこんだ。







 騒ぎが収まったと同時に美術部員が美術室に駆け込む。
「あ…あたしの絵…」
 一年生が呆然とその場に膝をつく。
「私のもだ……やられた…」
「もうやだ…美術部辞める……こんなんなら家で一人で描いてた方がよっぽどいいよ…」
 涙ぐみながらペンキで汚された作品を抱え込んだ。
「辻夏希さんがいるからいい部だと思ってたのに…肝心の辻さんがこんな人じゃいくら作品描いてもすぐにめちゃくちゃにされちゃう…」
「すみません」
 亮良が一番ペンキの被害の大きかった女生徒にハンカチを差し出した。
「そんなことより私の絵、元に戻してよ!あんたに謝られたってしょうがないじゃない!せめて辻さんに謝らせてよ!」
「夏希は……」
「辞めさせて…辻さん、美術部から追い出して…」
 泣きながら一年生部員が呟いた。
「私たちは好きな絵をコツコツ描いて文化祭に出そうって頑張ってたのに…それを一瞬でこんな事にされるんなら辻さん追い出して…」
「どうしよう…文化祭もうすぐなのに…ったく何考えてるのよ、辻さんは…」
 キャンバスを抱えて部員の一人が口から漏らす。
「何が注目の若手アーティストよ…。何が十二宮よ…。偉ければ人の絵台無しにしてもいいって言うの?」
「何様よ…消えればいいのに……」
「そうよ、もう辻さんは二度と美術室に入れない!」
「そうよ!そうよ!美術部の恥よ!」
「向こうこそ家で勝手に一人で描いていればいいんだわ!私たちが合わせる義理なんて少しもない!」
 異口同音に美術部員達が声をあげた。







「すみません、手伝ってもらって」
 夏希を保健室に寝かせ、美術室に戻るとその惨状に改めてまゆりはため息をついた。不幸中の幸いなことに水性のペンキだったので比較的楽に落とせる。
「辻さんって美術部だったんですね」
 窓際に置かれた雑巾を絞りながら床を拭く亮良に言う。
「ええ、現代アートのほうでは若手で結構名を馳せてるみたいです。俺は絵とか全然分からないんですけど、初等部の頃から夏希のお父様に言われて面倒見てるだけで…」
 右肩の緑のペンキはそのままで亮良は苦笑した。
「時々こういう奇行に走るんですよ。もっとも普段もあんまり普通じゃありませんが」
「辻さんのお父さんって?」
「あれ?知りませんでしたか?ここの理事長ですよ」
「なっ!」
(あれが理事長の娘…)
「ここだけの話ですがね」
 机のペンキを順々に丁寧に拭き取りながら、亮良は少し声を潜めた。
「夏希も決して成績悪いわけじゃないんですが、成績も素行も夏希よりいい水瓶座が他に何人もいたんですよ」
「それを理事長権限で辻さんを水瓶座にしたと?」
「その通りです」
 亮良はまた苦笑する。
「そんなばかげた話が…」
「通るんですよ。それだけの権限と権利を与えられている。現にこんな派手な惨劇起こしても、先生は誰も来ないでしょう?」
 確かに。これだけのことがあっても、美術部の顧問はどうしたというのだろう。
「それが逆に夏希のプレッシャーになる。何の罪もないのに蹴落とされてきた水瓶座の生徒たち。好きなことをしているだけなのに、無責任に期待を寄せ意見する芸術の大家たち。自分の立場を恐れ近づこうともしない部活やクラスの生徒、教諭。そしてそんな世界を作った父親。すべてが憎くてたまらないんですよ」
 これで何枚目だろう。新しい雑巾を濡らして絞る。
「だから俺だけは一緒にいようって思ったんです。あの小さな女の子の側で笑っていようって。『妹尾君が一緒だから大丈夫』って思われるようになろうって。なかなか上手くは行きませんけどね」
「それは…好きってこと?」
 亮良は一瞬迷った後にかぶりを振った。
「そんな『好き』は夏希に失礼だ」
「それって…」
「中務さん!」
 二人の会話の間に入ったのは香我美真人の声だった。
「観月さんが第三体育用具倉庫に閉じ込められたって!」
「第三倉庫ってさっき言ってた?」
 真人はうなずく。
 まゆりはチラリと亮良のほうを見た。
「行ってあげてください。こちらは大丈夫ですから」
 笑顔で見送ると、真人とまゆりは駆け出した。







「観月さん!」
「その声はまゆり会長か?」
 古めかしい掘っ立て小屋のドア越しに声が聞こえた。ソフトボール部の面々がその声を心配そうに見ている。
「あー、やばいやばい、懐中電灯の電池切れてしもてなぁ。真っ暗で何も見えへん」
 しかたないなぁ、という風にまゆりは頭をかいた。
「観月さん、扉からできるだけ離れて」
「へ?う、うん分かった」
 まゆりは右足の爪先で数回地面を蹴った。
「まさか力ずくで開けようと?」
 部員の一人が言う。
「無理ですよ、ソフト部員全員でひっぱっても開かなかったんですよ!」
 また別の部員が叫んだ。
「引いてダメな時はねぇ」
 まゆりは言うと助走距離を空け、走り出したかと思うと、ロングスカートのまま扉を蹴破った。
「押してみるの」
 中央に大きなひびの入ったドアはみしみしと音を立て、倉庫の内側に地響きと共に倒れこんだ。気持ちのいい達成感でまゆりはふぅっと額を拭う。信じられないという顔の祐歌とソフト部の部員たち。その真ん中で真人だけは「可憐だ…」と少女漫画のヒロインのように目をウルウルさせていた。







「大変申し訳ありませんでした」
「いや、どうせあの倉庫は取り壊しの話も出ていたし」
 職員室で体育設備担当の教諭に深く頭を下げる祐歌とまゆり。
「しかし、古くなってたとはいえ傾いでたドアを蹴破るとは…空手部に入ってほしかったなぁ」
「い、いや…空手は…」







(みんなには恥ずかしくて言えないわよねぇ)
 ナルにも言ったことはない。表向き父親の職業は自営業ということにしている。当たらずしも遠からずといったところだ。
 とぼとぼと『中務流空手道場』と木の板に雄雄しい字で書かれた門をくぐった。
「ただいまー」
 引き戸を開け、沈んだ表情で一歩家の中に入る。
 と同時に胴着を着たいかつい体の男が殴りかかってくる。
 慣れた風にそれを避け、カウンターで男の頬に拳をぶつけた。
「何すんのよ、いきなり!」
「まゆり、玄関の敷居を踏むなと何度言ったら分かるんだ?」
「そのくらいいいじゃない、お父さん!」
 この父親に外見は似なかったのが、まゆりの人生における最大の幸運だった。
「いいや、そんな気構えではいかん!しかし日に日に強くなっていくな。跡取りが成長していくのを見るのが父さんは嬉しくてたまらんぞ!」
「跡は継がないって!私は医者になるの!お弟子さんから跡取り選んでよ!」
 言い放つと二階の自室に向かった。







 登校時、学校の際にある川沿いでじっとしゃがんでいる夏希を見つけた。
「何してるの?」
「……めだか」
 清流のなかを小さく泳ぐ半透明な魚の群れ。
「さっき びじゅつしつに いった……」
「え?」
「ぺんき すいせいで よごしたの あぶらえ ばかり だったから なおして あやまろう とおもって でも びじゅつしつ いれて もらえなかった わたしは たいぶ だって」
「そんな……」
「わたし なつに うまれて きたかった」
「え?」
「わたし にがつ うまれだ それなのに『夏を希む』なんて なまえ いやみだ」
「そ、そんなこと…」
 ないとは言い切れなかった。少なくとも夏希はそんな単純な答えで納得するような子ではない。
「冬に生まれたから夏が恋しかったんじゃない?」
「あきらも おなじこと いった」
 気まずい沈黙が二人の間に流れた。
「でも きらい この なまえ」
 まゆりは立ち上がった。小川の向こうにある咲いたばかりの紫陽花を手折り、差し出した。
「夏の花」
 まゆりは笑う。
 夏希は不機嫌な表情のままだったが紫陽花をじっと見つめていた。







「妹尾君、ちょっといい?」
 十二宮室の隅でまゆりは亮良に手招きをした。
「どうしました、会長?」
 まゆりは夏希がいないことを確認して、登校の時に夏希と話した概要を教えた。
「あいつは、またそんなことを…でも夏希の言ってることって本当なんですよね」
「え?夏に生まれてほしかったってのが?」
「ほら、理事長って、この十二宮みたいに星占いで生徒会まで構成する程の占星術好きじゃないですか。で、まぁ会長なら知ってると思いますが夏の星座って…俺もそうなので言いにくいんですが…明るくて人好きのする星座が多いでしょ?」
「それで『夏希』なんて名前を?ひどい!」
「ちょ、ちょっと声が大きいですって、会長」
 亮良はなだめるが、正直理事長室に殴り込みにでも行きたい気分だった。
「夏希も直接聞いたわけじゃないんでしょうけど、うすうす気づいてるんでしょうね。名前の話をするときは大体機嫌が悪いときなんです。昨日の美術室の事件が堪えてるんでしょう。でも俺にはどうすればいいのか分からなくて…」
 亮良は黙って俯いた。







「『どうすればいいのか…』かぁ」
 亮良でもどうすればいいのか分からないのに自分に分かるはずがない。椅子の背もたれに深く腰掛けていると、滋が書類を持ってきた。
「まゆりさんー、第三倉庫の件なんですけど、昨日の観月さんの騒動があったでしょ?そのせいで危険なので極力早く取り壊せってことになったそうです。予定は明後日…土曜の昼過ぎにでもってことで」
「うん、分かったわ。それまでに各運動部は各自の備品を取り出すように通達出しておいて。本当は運動部長の観月さんの仕事なんだけどいないから…体育委員長、頼める?」
「らじゃです」
 稔がヒラヒラと手を振り、立ち上がった。
「あ!」
 まゆりは思わず声を上げた。そこにいた全員の視線が集まる。
「ご、ごめん。香我美くん、伊賀くん、ちょっといい?」







「辻さん、ちょっと来て」
「なんだ」
 眉をしかめる夏希の声ももう慣れた。
「いいから。よかったら妹尾君も」







 夏希と亮良とまゆりが向かったのは第三体育用具倉庫だった。
 取り壊しの決まった倉庫からは道具もすべて引き払われている。
「あ、来た来た」
 真人が工業用ペンキを台車に山積みにして持ってきた。
「これ、あなたにあげる。生徒会費ごまかして買ったの。この倉庫もあげる。明後日には取り壊されるから、好きに使って、でもって見せたい人にだけ見せて」
 まゆりが笑うと夏希は目を丸くしてうつむいた。
「あ…ありがと……」
 青と紫のペンキを取り出し、ブチ撒けるかと思ったのに意外にも部屋の片隅に筆を持って小さく描き始めた。
「見ていい?」
 慣れた筆遣いで描かれていったのは小さな紫陽花だった。
「あさっての あさまでには かんせいするから みたければみにこい あきらとおまえには みせる」
 重い台車を引きずってきた真人はがっくりと肩を落とした。







 土曜の早朝、携帯電話の着信音にまゆりは起こされた。
「はい、中務です」
「かんせいした とりこわされる まえに はやく みにこい あと よごれても いいふくで こい」
「え?うん。分かった」
 まゆりは慌てて古いシャツに着替えて家を出た。







 着いた用具倉庫の前で亮良と鉢合わせた。
「会長も呼ばれて?」
「はい」
「じゃあ行きますか」
 扉のない空の倉庫を期待と不安で覗き込んだ。
 まゆりは目を見張った。
 そこにあるのは色とりどりの紫陽花の花。緻密に描き込まれた大小さまざまな紫陽花が床から壁、天井までをびっしりと覆っている。
「すご……」
 亮良は言葉も出ない様子だった。
「よくみたか?」
 亮良とまゆりはうなずく。
 すると満足げに外に出ると、まだ使っていないペンキの缶を持てるだけ持ってきた。
「お楽しみはこれからだ」
 ニヤリ、と夏希の目が光る。
 と思ったら、美麗な紫陽花の上から真っ赤なペンキを思いっきりぶちまけた。まるであの時、美術室でしたみたいに。赤の次は黄色、緑、青…。まゆりや亮良にも、自分にもペンキがかかるのなんてお構いなしに。紫陽花が色で埋め尽くされていくのを、ただただ見ていることしかできなかった。
 しかし……
「楽しそう」
「ええ、あんな夏希初めて見ました」
 笑っていた。
 それでなくともボサボサの髪を一層乱しながら、目に隈を作って、それでも笑っていた。
「こういうのをやりたかったんですね、夏希は。ありがとうございます、会長」
 亮良が頭を下げた。







 全部のペンキを使い切って、紫陽花をほとんど塗りつぶすと満足げに夏希は汗を拭った。
「たのしかった あきら まゆり」
 まゆりはふと自分への呼称が『かいちょう』から『まゆり』に変わっているのに気がついた。亮良が自分より頭二つ分は小さいであろう少女に抱きつく。
「よかったね、夏希」
 夏希は満足げに笑う。
「ありがとう まゆり」
 思いがけず声をかけられ、まゆりは一瞬戸惑ったがすぐに笑った。夏希の笑顔は想像以上に愛らしく、柔らかいものだった。







「あ、雨…」
 雨音に気づいた亮良が呟く。
「大丈夫ですか、会長?」
「うん、折りたたみ持って…」
『る』というより先に大人数が、もうない扉の向こうから小屋になだれ込んできた。
「だから雨降るって言っただろ?」
「でも濡れたらパーマが大変なことになっちゃうんだから!」
「まぁまぁ、二人とも…」
 そこにそろっていたのは十二宮全員。
「なんで皆ここに?」
「すみません!ペンキ代、会計の伊賀君が詰め寄られて…」
「いや、僕が黙っていれば…」
 真人とリョウスケが頭を下げる。
「で、全員で見に来ちゃったわけだ」
 まゆりは真人とリョウスケの額に軽くデコピンをすると、息をついた。ちなみにかる〜〜〜くしたはずのデコピンに男二人がのた打ち回ってるのは構わないことにした。
「でもすごかった〜辻さん」
 目をきらきらさせてナルが夏希の両手を取る。
「は、はなせ、ろりきゃら!」
「放さないもんね〜。だって皆もそう思ったでしょ?」
 扉がないので外からでも夏希の行動は筒抜けだったようだ。
「ええ、素晴らしかったです。ちょっとびっくりしましたが」
 取石椿が手を叩いて褒めた。
「雨が止むまで十二宮室でお茶でもしていましょうか」
「そうだな、このくらいならすぐ止むだろ」







 椿が紅茶を入れてる間に小屋が重機で壊されていく音がした。
「せめて写真くらい残しておけばよかったな」
「いや、壊されるからいいんだと思いますよ」
 辰弥の言葉に亮良が反論した。
「なぁ、夏…」
 亮良が話を振ったら滋が『しー』と指を立てた。
 滋の隣では安らかに眠る夏希の姿があった。安らかで満足げな表情。
「じゃぁ、こっちを記念に…」
 亮良は胸ポケットから携帯を取り出した。そしてその寝顔を撮る。
「題名『戦いの終わり』」
 全員がクスリと笑った。







「ごめんなさい もう ぜったいに しません だから ぶんかさいの じゅんび てつだわせて ください」
 美術室の前。夏希は神妙に頭を下げた。全身が小刻みに震えている。赦しを請っているのだ。
「……ごめんなさい……ごめんなさい…」
「何それ?理事長の娘権限?それとも十二宮権限?」
「えを かきたいん です」
「……なら一人で描けば?どうせ家広いんでしょ。汚してもいい部屋なんていくらでもあるんじゃないの?」
「み…みんなで えを かきたいん です」
「もういいんじゃない?」
 美術室の中に入れようとしない女生徒の後ろから背の高い男子生徒が顔を出した。
「部長!どうして辻さんだけそんなに甘やかすんですか?やっぱり理事長の娘だからですか?それとも有名アーティストだからですか?」
「いや」
 美術部長は周囲を一瞥した。
「妹尾くんなしで一人で謝りに来たからだよ」







「もう大丈夫かな」
 美術部長に必死に頭を下げる夏希を陰から見て、亮良は息をついた。
「大丈夫って…辻さんが?」
「はい、人に絵を見せたいって思ってくれた」
 亮良は静かに笑う。
「絵を描く喜びの一つって人に絵を見せることでしょう。会長のおかげです。ありがとうございます」
「いや、私は何も…」
「でもこれで俺もいなくなれます」
 寂しげに微笑んだ。
「え?」
「夏希には俺が一緒にいちゃいけないんです」
「……どうして?」
「俺、夏希には芸大に行ってほしいんです。でも楷明大に芸術学部ってないでしょう?だから外部受験しなきゃならない。まぁ夏希の画力と実績なら簡単に行けるでしょうが。けれども俺が楷明大に行ったら夏希はついてきますよ。だから俺は夏希が行けないくらいの偏差値の学校に行こうと思ってるんです」
「それって…すごく残酷な事じゃない?」
「はい、だからまず夏希が一人立ちしてくれなきゃなと思っていました」
「それで『もう大丈夫』?」
 まゆりはゆっくりと顔を上げた。
「妹尾くんは寂しく…ないの?」
「別に…俺は単なる夏希の世話係だから」
 亮良はゆっくりと俯く。
「夏希のためなんですよ」
「どうして?妹尾君は辻さんのこと好きなんでしょ?辻さんだってきっとそうよ。じゃあ、どうして一緒にいちゃダメなの?」
「好きじゃない。自分のために夏希を利用しているんです」
「え?」
「俺の家はそんなに裕福じゃない小さな町工場なんです。それが取引先の夏希の家が、夏希の面倒を見るなら楷明に初等部から学費免除で入れてくれるって…」
 どこか険しい顔立ちになる。
「だから一緒にいるんです。でも夏希はそれを知らなくて…。俺は夏希を騙し続けてここまで来た。だから大学くらいは、もう離れたいんです」
 亮良は冷たく言った。
「俺は解放されたい」
「あきら…」
 まゆりは低い声にバッと振り向いた。
「あきら いまの ほんとう?」
 そこには夏希が呆然と佇んでいた。
「辻さん、いつから…?」
 まゆりの問いには答えず夏希は駆け寄る。
「あきら!うそだよな!あきら!だって…だって…あきらは……」
「……嘘じゃない」
「ずっと だましてたのか?わたしのこと!ずっと…ずっと」
「ああ」
「あきらなんか いなくなれ!にどと ちかづくな!」
「辻さん!」
 夏希は踵を返し駆け出した。
「…追わないんですね」
「だって妹尾くん嘘ついてるもの」
 亮良は目を丸くした。
「どうして…気づきました?」
「毎日見ていれば分かるわよ。妹尾くんが辻さんのことどれだけ大事に思ってるか。それを辻さんが見てるの知ってて聞かせるためにあんな嘘ついて……」
 まゆりは大きくため息をついた。
「どうするの、これから?」
「どうもしませんよ。ただ夏希に嫌われた。それだけです」







 次の日から夏希は十二宮室に来なくなった。美術部で文化祭の準備をしているらしい。行事実行委員長の仕事は全て亮良がこなしていた。
 一度だけ、暇を見て美術室をのぞきに行った事がある。夏希は部員達と笑っていた。以前の無愛想な面影はどこにもなく、生き生きとペンキを運んでいた。それを亮良に伝えると苦笑された。だから言ったでしょ、と。







 そして、文化祭当日。
 美術室は主に子供で大盛況だった。レインコートを貸し出し、ペンキを振り回す。美術室は汚れ放題だったがそういうイベントだ。すぐに落ちる水性ペンキを使っている。部員は全員汚れてもいいように揃いのTシャツにジーンズ姿だ。
「辻さんのおかげで思いついたよ」
「そうそう、最初にやられた時は迷惑だったけどね。子供には受けがいいんだね、こういうの」
「そんなこと…」夏希は顔を赤らめ俯いた「あのときは…ほんとうにごめんなさい」
「もういいよ。そんな何度も謝らなくても」
「そうよ、結果オーライ」
「でももうやらないでね」
「あはは、それは言えてるー」
 部員達は陽気に笑いながら夏希のボサボサの頭を撫でた。
「うん もうしない」
「あの時、妹尾君が来なかったらどうなってたか」
「あきらの…!」
 夏希は立ち上がり声をあげた。
「な、何?」
「……あ…あきらの はなしは するな」
 声を潜め、座り直す。
「ケンカでもしたの?」
「辻さん」
 後ろから声をかけられ振り返る夏希。
「まゆり」
 美術室の窓を開け笑う。
「十二宮室に来て」
「ち…ちょっと……」
 走るまゆりに手を引かれ、ペンキだらけのTシャツ姿で文化祭の人をかき分ける。
「じゅうにきゅうは だって あきらが…」
「話してない!妹尾くんとちゃんと話してないでしょ!」
「だって…あきらは わたしのこと もう いやだって もう…もう……もう…」
「あんなの信じるの?あんなで壊れるくらいあなたと妹尾くんの積み上げてきた年月は薄かったの?」
「つみ…あげてきた……」
 まゆりは十二宮室の扉を開けた。
「妹尾くん!」
 見回りに出ようとしていた滋が顔を上げた。
「会長?妹尾くんなら自分の仕事が済んだからもう帰るって…」
「いつ?」
 声をあげたのは夏希の方だった。
「つ…ついさっき…」
 夏希は踵を返し駆け出す。


  話して


 人ゴミの中で必死に辺りを探す。


  笑って


 階段を跳び下りる。


  名前を呼んで


 正門に続く渡り廊下を渡る。


  いつものように


 見つけた。


  頭を撫でて


 誰よりも見慣れた背中。
「あきら!」
 振り返るその瞳。目を見開き、戸惑う亮良。ペンキまみれの服で自分よりもずっと大きな体に飛びついた。
「はなれないで!わたし あきらがいい!あきらと いっしょにいる!」


  離れないで。


「だいがく ちがっても いい! あえる じかんが へってもいい!あきらと いっしょに いる!」
 夏希は大粒の涙をポロポロと零す。
「あきら!」
 亮良はペンキに彩られたその四肢を強く抱きしめた。


  いつものように 言って


「頑張ったね、夏希」


  そう その言葉で私は救われてきた


「大好きだよ、夏希」
 強く強く抱きしめ合う。


  離れないで。
  その言葉で私は救われる。







「あきら わたし ようが すんだから びじゅつぶに いってる みきたちと かえるから さきに かえってて いい」
「分かった。美樹さん達によろしくね」
 鞄を持って夏希は軽い足取りで十二宮室を出た。
「なんかあの二人、様子が変わってません?」
「まぁ、いろいろあったんでしょ。四六時中ひっついてるだけが愛情じゃないってね」
「あー、まゆり何か知ってるげ!教えて教えてー!」
「守秘義務を行使します」
 騒ぎ立てるナルを抑え立ち上がった。
「妹尾くんは結局十二宮に残っていいの?辻さんにひっついてる事もなくなったし、勉強に集中したいんじゃ…」
「あ、俺、楷明大に行く事にしましたから。経済学部です。それで将来は家の工場継ぎます」
「それじゃ、辻さんだけ芸大に?」
「はい、ここから近い所探すそうです。画塾にも行くって。多分推薦取れると思うんですけどね」
 笑って書類をまとめた。
「特進クラス入ったのムダになっちまったなぁ」
 稔が冷やかす。
「ムダなことなんてないですよ。勉強するのは楽しいし」
「うわ、出ました。優等生発言」
「でもそうよね、ムダなことなんてないのよね。何一つ」
 まゆりは空を見上げる。
 梅雨明けの予報がその日、テレビで告げられた。



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