かむがたりうた 第漆章「ヤドガエ」




 待つ身につらき夜半の置炬燵、それは戀ぞかし、吹風すゞしき夏の夕ぐれ、ひるの暑さを風呂に流して、身じまいの姿見、母親が手づからそゝけ髮つくろひて、我が子ながら美くしきを立ちて見、居て見、首筋が薄かつたと猶ぞいひける、單衣は水色友仙の凉しげに、白茶金らんの丸帶少し幅の狹いを結ばせて、庭石に下駄直すまで時は移りぬ。



        樋口一葉「たけくらべ」



















  パタパタパタ





「けほっ、すごいホコリ」

 エプロンに三角巾姿の遥歌は、包帯のとれない右手を庇いながら百科事典を運ぶ安に言った。

「引っ越しの準備手伝ったら、万夫おじさんの本いくらでも持って行っていいって本当でしょうね?」

「うん、大学にある本も今度取りにきて。ていうか持って行ってもらわないと困…」

「うわっ複製古事記の初版本!宝の山!宝探し!安も頑張れ」

「ハルが…壊れた」

 春休み終盤。

 父の遺品と自分の荷物の整理をしようと算段していたのだが、右手の思わぬ怪我で人の手を借りることになった。

 書斎で暴走する遥歌を横目に西夜が顔を出す。

「台所はあらかた終わったでー。っていうかほとんど何ものうて…使えるお皿とかはもろてええか?」

「うん」





  ピンポーン





「はーい」

「頑張ってるー?砂城ちゃんとトコちゃんと琉クンでーす☆」

「お、お邪魔します」

「東子まで連れ出したん!」

 西夜が声を上げる。

 人の手を借りると余計な手もついてくる。安は今日ほど勉強になったことはなかった。

 東子の洋服姿を見たのは初めてだった。グレーのブラウスに揃いのロングスカート。琉真はロングTシャツにハーフパンツという出で立ちだったが首の包帯を隠すために首にマフラーを巻いている。

「西夜クンのところ行ったら二人しかいないんだもん」

 招き入れた覚えはないが、三人は…というか砂城が琉真と東子を引っ張って上がり込んでくる。

「ああ、婆ちゃん、買い物に出かけとうから」

「大変ねー。あ、コレ差し入れのシュークリーム」

 有名菓子店の箱を安にずずいっと差し出す。

「これで栄クンが来てたら全員集合なのにねー」

「何の全員ですか?」

 いつもより二オクターブほど低い声で尋ねたのは二階から下りて来た遥歌だった。

「安の右手に重傷負わせた責任者全員集合でしょうか?」

「え…えーっと」

 安が答えあぐねてると砂城が笑って前に出た。

「砂城たち万夫さんの古事記の研究を手伝ってたの」

 サラリと出まかせを言う。

「そこの小さな子も?」

「トコちゃんは単に西夜クンの妹だからつれて来ただけ。こっちの琉クンはこう見えてイギリスで高校卒業資格取ってるから」

 サラリと出まかせ…って

「えぇっっっっ!」

 安と遥歌の声が重なる。

「はい、まぁ」

 琉真はポリポリと頭をかいた。

「お…俺より学力では年上…」

 病院でペンを借り出したり、鍵を盗み取ったりする手際の良さから頭のいい子だとは思っていたが…。

「ていうか、あんた小学生レベルも危ういでしょ」

 言いながら、遥歌はポケットから取り出した手帳に学校ではまだ習っていない四次関数の問題を書いてボールペンと一緒に差し出した。

「あ…ボールペンは…」

「大丈夫ですよ、安さん。もうあんなことしませんから」

 受け取って一瞬考えた後、サラサラと英語と数字の混ざった解答を差し出した。

「…そうね、そんなすぐ分かる嘘つかないわよね」

 降参、と言わんばかりにヒラヒラ掌を振った。

「や…やっぱり」

「見事、全問正解。ていうか何であんたが知らないのよ」















「えっと…改めて…西夜とハルは顔見知りだよね」

 一端休憩ということで、ソファに集まったのは六人。客用ソファも窮屈そうだ。

「こっちが俺の幼なじみの天川遥歌。旗右先輩とも知り合い」

 遥歌は「よろしく」と軽く頭を下げた。

「西夜はいいとして…その隣が水吹東子ちゃん。西夜の妹で…えっと…事情があって口がきけないから。で、琉真=アークライト。イギリスと日本のハーフで、俺と同じく神社に居候中」

 二人がそれぞれ頭を下げる。

「はいはーい、で砂城が…」

「砂城さんね。よろしく」

 手を挙げて立ち上がった砂城は、冷たい声に一瞬フリーズするが負けるかっと続けた。

「茅原砂城!砂の城、って書いてサキ!綾楓女学院のもうすぐ高三!九月二七日生まれ天秤座のB型。好きな食べ物は…」

「あ、もう分かりましたから」

 乗り出して言う砂城を手で止める。

「茅原…でお嬢様学校の綾楓って…もしかして茅原グループの関係者?」

「茅原グループ?」

 安が聞き返す。

「ほら、銀行とか不動産とかやってる大会社よ。茅原って名前は前面に出してないけど…」

「へぇ…そうなの、砂城ちゃん?」

「う〜ん…まぁ、親戚みたいなモノ」

 砂城は珍しく言い淀んだ。

「琉真君といい何であんたは相手の素性知らずに仲良くしてるの?」

「い、いや…成り行きで」

 詰め寄る遥歌に後ずさる。

「まぁいいわ、今度ゆーっくり聞かせてもらう」

 シュークリームをかじりながらじっとりと安を見た。

「でもこれで合点がいったわ。最近古事記についてや旗右先輩のこと尋ねて来たの、この人達の影響だったわけだ」

「ま、まぁね」

 かえって、いいタイミングでごまかせたのかもしれない。















「太榎安が自分が言霊使いだと気付いてしまったそうです」

「そうですか。まぁいつか話さなければならなかったことです。仕方ありません」

 伊邪那美は栄の言葉に振り返った。

「近いうちにまた安様を連れて来て頂けますか?」

「……分かりました」















「ぶっちゃけ聞いちゃうけど、遥歌ちゃんは安クンの彼女?」

  ぶはぁっ

 安と遥歌は二人同時にコーヒーを吹き出した。

「お、幼なじみって言ってるのに…」

「そ…そうですよ、茅原さん」

「ふ〜ん、幼なじみねぇ」

 身を乗り出して、遥歌の顔をじろじろ見る。

「砂城、ちょっと忘れ物したから家帰って取ってくる」

「また何か企んでるな」

 ニヤリとした砂城に西夜は息をついた。















 小一時間経っただろうか、安たちは部屋の片付けを続けていた。

 琉真と東子も自分から加わって来た。要領がいいとは言えなかったが、それでも前よりはよく進んだ。

「再びお邪魔しま〜す」

 砂城の声が響く。降りて行くと大きな紙袋とボックスバッグを持った砂城が手を振っていた。

 しかしそれより目を引いたのが黒髪の長身。

「旗右先輩?」

 迷惑そうに顔をしかめている。

「家の近くで偶然会ってね。男手は多い方がいいでしょ?安クンと琉クン怪我してるし。だから連れて来たの」

「緊急事態だと聞いて来たが、まさか引っ越しの手伝いか?」

「そ、砂城も手伝うから早く片付け終わらせちゃおー。やりたいことあるからっ☆」

 安と西夜は顔を見合わせた。

「じゃぁ砂城は客間片付けるわね!トコちゃんもおいで」

 あ、さりげなく一番楽なところ取って行った。















 一番大変な書斎の片付けを続けながら遥歌は安に尋ねた。

「茅原さんってさぁ、旗右先輩と仲いいの?」

「本人曰く『ラヴラヴ』、先輩曰く『無関係』」

「なるほど。しかしあの先輩相手にそんな人がいたなんてねぇ。どこがいいんだろ」

 段ボールにこれでもかというほど本を押し込めて、ガムテープで封をする。

「あれ?これ安の?」

 引き出しから取り出したのは小さな丸いマスコット。球型の物体に顔が描かれてあり、手足に見立てた紐が四本ついている。明らかに手作りのものだ。

「あ、それ母さんが作ってくれた…懐かしいな。持っていくよ」

 さほど気にもせず遥歌は安の私物用の段ボールに詰めた。

「先輩ー、これも運んでもらえますか?」

「天川…貴様いったいどれだけの本を持って行くつもりだ?」

 疲れ果てた声で栄は書斎に入ってくる。さっきから遥歌と安の家を何往復もしている。近所とはいえ、重い本を持っての移動だ。疲れない方がおかしい。

「うーん、欲を言えば全部?」















「お疲れ様ー!」

 栄以外の全員が紙コップを掲げた。

「よーやく終わったー!」

「このソファとか棚とかはこのままにしていいの?」

「家具は今度リサイクルショップに引き取ってもらうから」

「じゃぁ引っ越し完了ですね」

 本は結局、遥歌がほとんど自分の家に運んで行った。

 安の私物は段ボール三つにもならなかったので、帰りに西夜と運べばいいだろう。

 住み慣れた家はこんなに広かったのかと、安自身驚いていた。

「みんな、ありがとう」

「ウチ、お弁当作って来たんや。作りすぎてしもうたんやけど人数増えたからちょうど良かった」

 西夜が重箱を取り出す。ちょうど昼食の頃を少し過ぎた時間だ。デパートの花見弁当よりよっぽど彩りきれいな弁当がリビングのテーブルに並べられた。

「水吹君…あなた自分で作ったの…?」

「あ、西夜は料理得意だから」

「………負けた…」

 安の言葉に遥歌はため息をつく。

 栄は先に自分の分だけを手早く紙皿に取って、ダイニングのスツールに向かった。ソファも詰めれば栄の場所は作れたが、彼はこの方が楽だろう。

「安ー、クリームコロッケあるよ」

「もらうもらう」

「西夜クンこのおにぎり、中身何?」

「えっとそれは梅、隣の並びが鮭や」

「東子さんも、もっと食べなきゃダメですよ」

「旗右先輩ももっといかがです?」

「いや、これでいい」

「そんなだから痩せるのよー、栄クンもトコちゃんも。砂城の脂肪あげたい〜」

 こんなに騒がしくこのテーブルを囲める日が来るとは思わなかった。屈託なく笑う安を見て、遥歌は微笑む。安堵、なのかもしれない。

(保護者役は、もういらないのかな…)

 少し寂しさも残しながら。

 安が人と接するのが苦手な理由は知っていた。本人は言わない父親との確執、母親との関係。長年付き合っていれば気付くものだ。それが今、成り行きとは言え人に囲まれて笑っている。

「いい仲間に会えたわね、安」

「うん」

 『仲間』という言葉に、ためらいなく頷く。

「砂城、今気付いたんだけどさ引っ越しって言ったら蕎麦じゃない?」

「引っ越し蕎麦は新居で食べるもんやろ?」

「挨拶に引越し先の近所に配るものよ」

「『ヒッコシソバ』って何ですか?」

「琉真は日本語そんな流暢なのに、文化は知らないんだ」

「だって入院するまでずっとイギリスにいたんです。日本語は病院で覚えたんで。本読んだり看護士さんに教わったりして」

「マジ?」

「ほな、文化紹介もかねて夕飯は蕎麦にするわ」

「え?夕飯も西夜クンが作ってるの?」

「春休みに入ってから三食西夜料理だよ」

「だってウチ、料理好きやし」

「うらやましー。砂城も西夜クンとこ居候したいー」

「もうさすがに部屋あらへんで」

「西夜クン冷たい!」

 会話が絶えない安を遥歌は見つめていた。















『ごちそうさまでしたー』

 誰ともなく、重箱と紙皿、紙コップを片付け出す。

「さて、お腹もいっぱいになったことだし…」

「帰るの?」

「言ったでしょ、したいことがあるって」

 砂城は持ってきていた紙袋とボックスバッグを左手に持った。

「遥歌ちゃん」

「はい?」

 割り箸を束ねていた遥歌の腕を掴むと、引きずりだした。

「ちょ、ちょっと、茅原さん、何を?」

 遥歌は慌てて言うが、抵抗空しく別室に連れて行かれた。

「皆はのぞいちゃダメだからね!」

 砂城はピシャリと言い放つ。

「何?」

「鶴の恩返し?」

「『ツルノオンガエシ』?まだまだ日本の知らないこといっぱいありますね。勉強しなきゃ」

「いや、琉真はこれ以上勉強しなくていいから」

 むしろ、しないでくれと言わんばかりに安は止める。

「栄さん、席空いたんでこっち来はったらどうですか?」

「離れてる方が気が楽だ」

「そうですか」

 西夜がしゅんと肩を落とす。

「そういえば太榎。伊邪那美様に貴様が自分の能力に気付いたとお伝えしたら、今度また貴様を連れて来てほしい、と仰っていた」

「分かりました。休みのうちに伺います」

 安は頭を下げた。















「なんですか?いきなり!」

 居間の隣の和室に連れ込まれた遥歌の口元に砂城は指を立てた。

「砂城の目はごまかせないわよ」

「はぁ?」

「好きなんでしょ?安クンのこと」

「え?」

「でーもー、安クンはまぁあぁあああったく気付いてない…………無言ってことは正解?」

 遥歌は顔を赤らめながら、小さく頷いた。

 ニヤリと笑うとビシと指差した。

「でも気付かない安クンだけが悪いんじゃない!遥歌ちゃんには努力が足りない!」

「へ?」

 言うなりボックスバッグを開けると、そこには見事に並べられた化粧品の数々。そして紙袋を差し出した。

「着替えて!砂城のお下がりだけど」

「き、着替え?茅原さん、一体何を……」

「その地味ーなシャツにGパン!ファッションじゃない眼鏡!ロクにセットもしてない髪!すっぴんノーメイク!」

「き、今日は掃除とかするから汚れてもいい服を……」

「じゃぁ普段は違うの?」

「ち……ちがわない……かも」

「そこよ!素材はすっごくいいのに磨かれてない!砂城の美学に反するの!」

「び、美学?」

 怯む遥歌に砂城は詰め寄る。黒髪の毛先をなでて、ヘアーアイロンを手に高らかに言う。

「砂城の美学その三十五!『恋する努力を怠らないこと』!」















 髪を整えられながら遥歌は砂城に尋ねた。

「こういうのってどうやって覚えるんですか?その…本とかに載ってたり?」

 遥歌の問いに砂城は吹き出した。

「面白いこと言うわね」

「あたしは真面目に聞いてるんですけど」

 前髪のピンを外す。

「そーだなー。あえて言うなら実践と経験?」















「じゃぁ、東子ちゃんって筆談とか手話もできないんだ」

 東子がゆっくりと頷く。

「自分の意志を表すことができへんのや。首振るんが精いっぱい」

 西夜が代わりに答えた。

「その分貴様が喋ってるだろう」

 栄の言葉に言い返そうとした時、扉が勢いよく開いた。

「砂城ちゃん、何か知らんけど終わったん?」

「じゃじゃ〜…って、ちょっと遥歌ちゃん!出て来なきゃ!」

「やっぱり変ですって!似合わないですって!」

 扉からは砂城に引っ張られる遥歌の腕と声だけしか伺えない。

「大丈夫だから、ほら!」

 背中を両手で押され、遥歌はよろめきながら姿を見せた。

 春らしい薄桃色のアンサンブルにふわりとした緑のミニスカート。アンサンブルの色に合わせたニーソックス。首には小さなチョーカーが光る。髪は軽くカールして、横からカラフルなピンで止められている。不自然にならない程度のナチュラルメイクだが、唇はグロスでつややかにされ、持ち上げられたまつ毛が大きな目を一層大きく見せていた。

「天川さん、めっちゃ可愛い!」

「先ほどまでもお綺麗でしたが、一層素敵です」

 声をあげたのは西夜と琉真だった。

 東子は目を丸く輝かせる。

 栄も無関心を装っていたが「ほぅ」と息をもらした。

「どーよ、どーよ!安クン!遥歌ちゃんの変貌ぶりは!」

「ど、どうって……」

 安の眼前に押し出されて、チークで赤らんでた遥歌の頬が紅みを増す。

「どうって………あ!」

 遥歌を頭から足先まで見てようやく声をあげた。

「気の利いた言葉思いついた?安クン」

「服の色がさっきと違う!」

 場が一斉に静まり返る。

「な…何を」

「違うの?じゃ……じゃぁ、ああ!」

 ポンと手を叩いた。

「髪がはねてる!」

「間違い探しかぁああぁぁあ!」

 砂城の拳が顔の真ん中を直撃する。

 遥歌は緊張が解けたようで、ペタンと床に座りながら砂城のスカートの裾を引っ張った。

「茅原さん…いいんです……こういう奴だって忘れてた私がバカだったんです」

 そこにいる安以外の全員から大きなため息が広がる。

「服…着替えて来ます……洗ってお返ししますね」

 立ち上がって歩くだけの気力を取り戻した遥歌は先ほどの和室に向かった。

「ああっ、洗わないでいいから!あげるから、その服昔のでもう着ないから!」

 砂城が追いかける。















「天川さんが優しい人でほんまよかったなぁ」

「砂城に同じことをしていたら顔面殴打ではすまなかったぞ」

「今頃、救急車ですね」

「霊柩車やろ」

 口々に繰り出される暴言に安は何がなんだか分からず赤くなった鼻を押さえてキョトンとする。

「な、なんだったの?」

「安さんに褒めてほしくてオシャレしたのに気付いてもらえないなんて…」

「オシャレ?そうだったっけ?」

「イギリスなら女性にこんな仕打ちしたら刺されてますね」

「で、でもなんで俺に?」

 巨大なため息が八方から聞こえて来た。味方が一人もいない状況に、ただただオドオドキョロキョロする。

「深くは言わへん。ただもうちょい考えて行動した方がええと思うで」

 西夜が肩を叩いた。















 馬鹿みたい

 馬鹿みたい

 馬鹿みたい





 洗面所でクレンジングしながら遥歌は自分の顔を鏡で見つめた。

 ああいう奴だって知ってたのに、一人で盛り上がって…。

「あの…ハル……」

 洗面所に入って来た安を鏡越しで確認する。

「その……ごめん……」

 こういう奴なんだ。

 悪気はないが、何が悪いかはイマイチ分かっていないだろう。

 逆に言えばこんな奴の相手できるの、あたししかいないじゃない

「いいわよ、気にしてないから」

「でも…」

「安は今のままでいて」

 砂城に借りた洗顔フォームで顔をすすいで、タオルで拭く。

「う…うん」

 眼鏡をかけて元通りになった遥歌は安の背を押した。















「さ〜て、砂城は帰るかな。バイトもあるし」

「綾楓のお嬢様がバイト?」

 伸びをして言う砂城に、遥歌が尋ねる。

「そ、勤労女子高生なの☆」

 ウインクして、答えになってない答えを返す。

「砂城、今日は紅音は?」

 栄が口を開いた。

「紅音ってあの小さい妹さん?」

「うん、保育所に夜まで預けてるわ」

「どうせ今日も遅くなるんだろう。私が迎えに行ってもいい」

「ホント!助かるー」

 どさくさに抱きつこうとする砂城をひらりとかわす。

「妹さんの面倒まで砂城ちゃんが見てるの?」

「そーよ、偉いでしょー!」

 ブイサインを出すと、すぐそこにかけてあったスプリングコートを手に取った。

「ほな、僕らもそろそろお開きにしよか」

 西夜が立ち上がった。















「安、この家はどうするの?」

「そのうち売るつもり。相続税とかいろいろあって、父さんの知り合いだった弁護士さんが手続きしてくれてる」

 遥歌の問いに安自身驚くほどあっさり言った。

 家の鍵を閉めるときも名残惜しさはなかった。

 自分はここにあれほど執着していたというのに。

 そうだ、俺にはもう別に帰る家がある。













「さようなら」

 誰にも気付かれない声で呟いた。



「さようなら」

 透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。

 少年は家に背を向ける安達を横目に静かに呟いた。

「寂しいのですか、架織さま?」

 後ろから筑波あづみが声をかけた。

「太榎万夫が住んでいた家ですからね」















 夜七時を回った頃だった。

 雑居ビルのエレベーターを上る。ビルの二フロアを使っている無認可保育園の扉を開けた。

「あ、おむかえですか?」

 ドアのすぐ傍にいたエプロン姿の少女が声をかけて来た。

 栄は時々ここに来ていたが初めて見る顔だった。

 自分よりも年下なのではないだろうか。肩より少し長い黒髪。穏やかそうで優しい瞳。不振げな空気が伝わったのだろう。少女は慌てて頭を下げた。

「あ、あの…私、高校生なんですが春休みの間バイトに入った弓比呂乃(ゆみ ひろの)です。よろしくお願いします」

「旗右です」

 栄は軽く頭を下げる。

「きゆう…あ、旗右紅音ちゃんですね。今呼んできます」

 数分もかからないうちにひょこひょこと紅音が歩いて来た。

「あーきょうは、さかえだー」

 言うと、革手袋の左手を掴んだ。

「さかえ?」

 比呂乃は頭を上げ、栄の顔をまじまじと見る。栄は眉間にしわを寄せた。

「どこかで会ったこと…あ、すみません。気のせいですよね。はい、紅音ちゃん。お父さんだよ」

「かえろー、さかえー」

「ああ」

 少女は去って行く二人を見送った。

「弓さーん、こっち手伝ってー」















(ユミ…ヒロノ……?)



 栄は静かに顎を押さえた。



(確かあの頃…)

「きょうはさかえのおうち、とまるのー?」

「いや、砂城の部屋に帰る」

「なーんだ。あかね、さかえのおうちのほうがすきー」

「砂城の部屋の方が広いだろ」

「でもさかえのおうちは、ぱーこ…ぱ……」

「パソコン」

「そー、パソコンいっぱいでー」















  夜道を連れ立って歩いていた。

  誰も知らない秘密を一緒に連れながら。



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