かむがたりうた Another 第壱章「セイギ」




すべての人に関心のあることなんてあるだろうか?だれにでも、世界のどこに住んでいる人にでも、あらゆる人間に関係あることなんて、あるのだろうか?あるんですよ、親愛なるソフィー。

        「ソフィーの世界〜哲学者からの不思議な手紙〜」
               著 ヨースタイン・ゴルデル
               訳 須田朗、池田香代子









 女子中学生の津山双葉(つやまふたば)は今日も憂鬱な顔で通学路を歩いていた。
 双葉は気が小さくて、他人に自分の意見を通すことなど到底できない。常に人に指図され動かされる側の人間だった。勉強の成績は並以下で運動音痴。背は低くて童顔で胸は発育不良。
 人より劣っている点ならいくらでも挙げられるが、人に誇れるとりえなど、何一つ思い浮かばない。ただ自分が嫌いになっていくのみだ。
 また辛い一日が始まる。







 学生達が歩いてゆく通学路のわきに設えられたガードレール。
その上に腰を下ろして、彼女はぼんやりと通行人をながめていた。彼女は普段通り暇でしょうがなかった。
 歳の頃は二十歳前。背中まである艶やかな黒い長髪。端整な顔立ちに闇色の瞳。髪や目の色とは対照的な、白いワンピースを身に着けている彼女の姿は、朝の通学路には相当に不自然だったが、彼女も学生達を意識することなくぼうっとしていた。
 そんな時に、一人の女子中学生が彼女の前を通り過ぎた。その頼りない背中を見て、久方ぶりに興味で心がざわつくのを彼女は感じていた。







「で、その英語の先生がバカでさー」
 五人の女子グループの実質的なリーダー・広田美鈴が中心となって雑談を進めている。
 今は授業の合間の休み時間で、美鈴の取り巻きともいえる四人の中に、津山双葉が含まれている。五人が等しく同じ立場というわけではない。そこには暗黙の了解…階級が存在している。
 美鈴をリーダーとして、その側近とでもいうべき発言力をもつ女子が二人。その二人の下に、普段はあまり目立たないがたまに面白いことを話す女子が一人。
 その下…つまりグループ中最低の地位を占める人間が双葉だった。なるべく笑顔を絶やさずに、ウンウンと皆の話にうなずくのが双葉の主な仕事。
「あ、そういえばアタシ今日掃除当番だった。今日用事があるんだ。津山さん代わってくれないかな?」
 美鈴の側近の一人が、両手を合わせて拝むように双葉を見た。
「う、うん! いいよ!」
 双葉は笑顔でそう応えた。
 双葉には彼女の嘘を指摘して代わりを断る勇気もないし、理不尽な要求を受けたとしても、それはこのグループの中での自分の役割であり、仕方のないことだと双葉は割り切っていた。
「ありがとー! 津山さん優しいからいつも助かるよー!」
 双葉は内心で自分に言い聞かせる。双葉は広田美鈴とその取り巻きの力で、いじめや仲間はずれといったものから守られているのだ。その対価を支払うのは当然のことだと双葉は考える。
 電話をかけるには通話料がかかる。塾に通うには授業料がかかる。マンガを読むにはお金を払って本を買う必要がある。それらと同じように、守ってもらうためにはそれ相応の対価を払うべきなのだ。世の中の仕組みからいって、弱い双葉が強い美鈴達に支配されるのは当然のことだ。そう納得して、双葉はそれ以上深く考えないようにした。







 それから数日後、双葉の身の周りに不思議な出来事が起こり続けるようになった。
 その始まりは、商店街の福引で、双葉が二等の温泉旅行招待券を引き当てたことだった。普段からついていない双葉が二等を引き当てたのは、偶然だと誰もが考えるだろう。実際に双葉自身もそう考えていた。
 しかし双葉の幸運はこの福引だけに留まらなかった。なぜか幸運が立て続けに起こるのだ。以前に応募した漫画雑誌の懸賞が当たり、双葉は前々から欲しかった携帯式のCDプレイヤーを手に入れてしまった。双葉の驚きと喜びが冷める前に、もう次の幸運が双葉に起こる。
 双葉はよくお金を拾うようになった。その金額は五百円玉だったり、千円札だったり、時には財布が丸ごと落ちていたりする。拾ったお金は律義に交番へ届けた。何度お金を拾って届けても、またお金を見つけて拾ってしまう。
 お金を拾う以外にも、奇妙な幸運は次々と起こっていった。







「じゃあこの単語を……津山、訳してみて」
「は、はい……!」
 英語の授業中、教師が双葉を指名して問題を答えさせようとした。双葉は動揺し、不安な顔でノロノロと椅子から立ち上がる。
「えっと……あの……」
 口ごもっている双葉の様子から、今回もダメだろうなと教師は内心で思っていた。
 いつものことながら、自分のだめっぷりにうんざりしつつ「分かりません」と言おうとした時、彼女は教師が意味をたずねた英単語…『hour』の意味に心当たりがあることに気付いた。覚えていた数少ない英単語のうちの一つが、その『hour』だった。それをまるで狙ったように教師が質問してきたのだ。幸運としか言い表せないことだった。
「じ、時間…だと思います…」
 おずおずと正解を答えた双葉に、英語教師はどうせ答えられまいという予想を裏切られて目を丸くした。
「そう。時間、ですね」
 一瞬だけ、クラス中の視線が立っている双葉に集中した。クラスメイト達も双葉が問題に答えることができたのが意外だったのだ。







 これは異常事態だ。
 偶然も三回続けばそれは必然だという。
 双葉の場合、三回どころか何度も幸運が続いている。
 これはもはや、ただの偶然の連続などではない。必然的な、何らかの現象だ。幸運が連続して起こる現象は、非科学的な超常現象だ。オカルトの世界だ。幸運自体は嬉しいものでも、それが原因不明の不可思議な現象によるものとなれば話は違う。一体自分はどうなってしまったのかと、双葉は不安になった。







 津山双葉が不思議な幸運に見舞われるのと同時に、それとは別の奇妙な出来事が彼女の身の周りで起こっていった。広田美鈴が、突然の高熱で倒れ学校を一週間以上休んだのだ。クラス担任によれば、高熱にうなされ、一週間ろくにものを食べられずに苦しみぬいた末に、美鈴はよろよろと学校に戻ってきた。
 その時の彼女は一目で分かるほどやつれていて、しばらくは気力もなく大人しい様子だった。グループの頭である美鈴に元気がないので、自然とグループ全体の活力も低くなり、そのせいか双葉が美鈴達から理不尽な要求を受けることもほとんどなくなった。
 美鈴が学校に復帰すると、今度は他のクラスメイト達が、まるで美鈴につられるようにして次々と病気になったり部活動で怪我をして休んでいった。いずれも程度は軽く、二、三日で治るものばかりだったが、それにしても数が多い。一週間の間に六人だ。怪我の者もいれば病気の者もいる。







 そして次の事件は、クラスの欠席者がゼロになってからすぐに起こった。双葉のクラスに、学校外部からの侵入者…泥棒が入ったのだ。
 それも女子生徒の持ち物だけを狙って盗んでいく、非常にたちの悪い窃盗だった。十一人もの女子のロッカーが荒らされ、中に入っていた体操服や運動靴、ノートなどが持ち去られた。
 双葉のロッカーは無事だった。内心で私物を盗まれたクラスメイト達に同情した。







 双葉はあいかわらず奇妙な幸運が連続していたが、それと対を為すかのように不運・不幸がクラスの中で続いていった。
 泥棒騒ぎもさめやらぬうちに、今度はクラス担任が病気で倒れたのだ。さらに、休み時間中にふざけあっていた男子の一人が、押されて転んだときにロッカーの角に頭をぶつけて頭を切った。
 事ここに至り、双葉のクラスの何人もが強い不審感を抱くようになった。
 不幸の伝染病。
 そんな漠然としたイメージを思いつく者もいたが、実際にはそんなものはありはしない。だが双葉だけは、今の不可解な状況を「不幸が連続して起こる現象」ではないかと考えていた。







 校門前でとりとめもなく時間を過ごしていた黒髪の彼女は、下校する生徒達の中に津山双葉の姿を見かけた。相変わらず中学生らしからぬやる気のない顔で、とぼとぼと歩いている。彼女が関わってから、もうそれなりの日にちが経っている。
「そろそろタネ明かしの頃合いかな」
 愉快そうにつぶやいて、黒髪の彼女は双葉の後についていった。







 人通りのない通りに入った双葉の右肩に彼女は手をかけた。双葉はびくりと振り返る。そこにいたのは見知らぬ美女だった。
「な、何ですか?」
「直接会うのは、はじめまして。私、綾瀬川楓(あやせがわかえで)」
「直接…?」
「最近、君の身の周りで不思議な事が起こっていると思うんだけど…気づいているかな?」
「…はい。運が急に良くなったと感じています…。不自然なくらいに…」
 思っていた通りとばかりに綾瀬川は微笑を浮かべる。しかしそれはどこか冷たくて、不吉なものを孕んだ笑みだ。
「予想はついてるかもしれないけれど、君の運が良くなったのには原因があるんだよ。私が君を幸運にしてるんだ。といっても神様みたいな大それたモノじゃない。私は普通の人間側の基準からすれば、悪の方に分類されるだろうしね」
「え…?」
 『悪』というフレーズが双葉の心に影を落とす。しかしその言葉の意味を問う前に、綾瀬川は話を先に進めてしまう。
「私は食べ物や空気の他に生きていくためにあるモノが必要なんだ。なんだと思う?」
「…………?」
 そんなもの、分かるわけがない。困惑し返答につまる双葉を見て、綾瀬川は再び軽く笑う。
「人間の幸運、だよ」
「……人間の……幸運……?」
「幸運はそれ自体が大きなエネルギーなんだ。私は人が持っている幸運をその人に消費される前にもらって、それを無色の力に還元して自分の体の維持に使う。私は人の幸運を食べて生きているんだよ。人間からもらった幸運は本来なら私のものなんだけど、それをただのエネルギーにしちゃう前に双葉にそのままプレゼントしてたんだ。君が最近ツイてたのは、こういう理由があったんだよ」
「…あ、あの…。あ、綾瀬川さんに…幸運をとられた人は……どうなるんですか……?」
「不幸になるだけ」
「……!」
 考えたくなかった可能性が真実であったことを綾瀬川から教えられ、双葉はしばしの間、声が出せない。そんな双葉を気にする様子もなく、綾瀬川は罪悪感のかけらも見せずにおしゃべりを続ける。
「…それじゃ最近クラスで悪い事が起こっていたのは…」
「君がクラスメイトの幸運を使ったせいだね。その人の幸運が減ったから、不幸に感染して悪い事が起こったんだ」
 決して考えないようにしていた最悪の答え。それを見て、綾瀬川が薄く笑う。
「クラスの人が不幸に見舞われたことを気に病んでいるのかな?大丈夫。気にすることなんてないよ」
「……綾瀬川さんは……どうも思わないんですか……?」
 これは幸運の押し売りだ。
 双葉の気持ちも考えず、他人を不幸にして双葉に幸運を押し付ける綾瀬川の独善的なやり方に、双葉は内心で怒っていた。
「どうも思わないよ。他人が嫌だと思うことはやめましょう。なんて考え方は君の倫理観でしょ?私が縛られる理由はない。私は人の幸運をもらって不幸にするモノなんだ。ただ私は正真正銘人間だし、考え方だって普通の人からそう離れたものでもないと思うし…双葉。顔が青いよ。他人を不幸にしたことがそんなに後ろめたいのかな?」
 双葉は小さく頷いた。
「他人の幸運をもらった結果、その人に不幸が訪れようが、気にすることなんかないんだよ。奪い合い・傷つけ合いは人間みんながやってることだしね。有限の価値あるモノを奪い合うゼロサムゲームの中で生き物はみんな生きているんだから、誰かが得をすればその裏で誰かが損するようにできている。君が幸せになって、クラスの人達が不幸になったのはその構造がちょっと露骨ってだけで、他の人達がやってることと程度が強い・弱いの違いしかないんだよ」
「…綾瀬川さんは、どうして私を幸せにしてくれるんですか…?」
「君が可哀想だったから、…かな?」
「可哀想…?」
「うん。登校してる君を見た時、自信がなさそうで、人生と世界に絶望してるなって思った。君みたいな子は珍しくもないんだけど君には魅かれるモノを感じたんだ。だからガラにもなく助けてあげたいなって思ったんだよ」
 そう言って、綾瀬川は明るく無邪気に笑う。
 人間を不幸にする恐ろしい人とは思えない無垢で透明な笑顔だった。それを見て、双葉の胸にわだかまっていた恐怖や悩みが一瞬ふき飛んだ。今までこんな笑顔を、見返りを求めない純粋な好意を双葉に向けてくれる人がいただろうか?
 綾瀬川のやり方は常軌を逸しているが、その善意は本物だ。胸にあふれる温かな気持ちと、現状に対する混乱した気持ちがまざり合って胸が張りつめる。
「私の話はこれくらいかな。運が良くなったことには気づいていただろうけど、いつまでも原因不明のままだったら、気味が悪くて不安だろうしね」
「は、はい…」
「君、勉強も運動もダメみたいだけど、これでラッキー続きのバラ色人生だね。よかったね、双葉」
「…は、はい…。ありがとうございます、綾瀬川さん……」
「伝えることは伝えたし、今日はもう帰るよ」
「えっ…?綾瀬川さん、どこかに住んでるんですか……?」
「君、私を幽霊か悪魔だとでも思ってない?一人暮らしだけど、きちんと家も戸籍もあるんだよ」
「は、はあ…」
「またときどき遊びにくるよ。じゃあね、双葉」







 綾瀬川が双葉の前に現れてから三日が経った。綾瀬川はどこかへ行ったきり、双葉の前に出てこない。道を歩けば落ちているお金を見つける。見た瞬間に双葉は「うっ……」と心の中でうめくが無論、落ちているお金は拾わずに放っておく。
 クラスの席替えでくじを引けば、窓際で最後列の、ながめが良くて先生からも指されにくい最高級の位置を引き当てる。
 放課後になって帰ろうと、机の中の教科書やノートを鞄につめていると、見慣れないものが机の中に入っていることに気づく。パステルブルーの色をした封筒で、裏側には知らない男の名前が記されている。双葉には絶対に無縁の、ラヴレター…と一般的に言われるものだろう。双葉は動揺しながらそれを鞄の中につっこみ、顔をほんのり赤く染めながら足早に下校していた。







「やあ。双葉」
 久々に押し付けられた掃除当番を終えて下校していると、道の端のガードレールに綾瀬川が腰掛けていた。
 以前、双葉の前に現れた時とは服装が違っている。黒色のノースリーブに膝の高さまでの黒いスカートを着ている。サンダルも黒色で、全身黒ずくめだ。彼女の黒く長い髪もあいまって、闇を身にまとっているかのような印象を双葉は受けた。
 綾瀬川の出現に驚いて立ち止まる双葉。それを見て、綾瀬川が薄く笑う。
「別に用事はないんだけど、ここで待ってれば君に会えると思ってね。暇だし、少し話そうよ。の帰り道に私がつき合うから」
 双葉がうなずいて歩き出すと、綾瀬川も双葉の隣を歩く。双葉と綾瀬川は並んで歩いていたが、会話はなかった。綾瀬川が話そうと言っていたので、双葉は綾瀬川の話を待っていたのだが、一向に綾瀬川が話し始める様子はない。
「…あ、あの…きょ、今日は前と服が違うんですね……」
 ぎこちない笑顔をつくろって自分から話題を振る双葉。綾瀬川はそれに応え、開いた左手を自身の胸元に添える。
「だから、君は私を人外のものだとでも思ってるでしょ?私だって汗もかくし垢も出るから着替える必要だってある。それに何より、いつも同じ服だと飽きるしつまらないでしょ?」
「は、はい……。それは確かに……」
 日が傾いてオレンジ色に染まりつつある街の道を、綾瀬川は軽い足取りで歩いている。長く艶やかな黒髪がさらさらと揺れる。背すじはまっすぐに伸びて、迷わず前へ、軽やかに歩いている。薄闇に溶け込むような黒い服が、妙に幻想的で美しかった。その整った顔を時々双葉に向けて、楽しげに笑う。
「…あ、あの…変な質問なんですけれど…綾瀬川さんは正義って、何だと思いますか…?人間が絶対に守らなくちゃいけない、大切なものだと思いますか…?」
「これはまた唐突に。君らしからぬ哲学的な質問だね」
「綾瀬川さんと話した後…自分なりに考えたんですけれど……私、頭が悪いから分からなくなってしまって…。クラスのみんなを見ても、正義の力をあまり感じられないんです。みんな好き勝手にやっているように見えるんです。誰も守っていない正義なんて、何の意味があるのかな…、なんて思ってしまって…」
「君、バカそうに見えて、実はけっこう深い事を考えてるんだね」
 綾瀬川の失礼な言葉は双葉には届かなかった。
「その正義は、人間が社会を作る上で都合を良くするためのルールだよね」
「都合を良く…?」
「人間が集団で生活するためには、お互いが傷つけ合わないようにしないといけないよね。皆が暮らしやすいようなルールを作って、そのルールを守ることは良いことだと、逆にルールを破ることは、集団の秩序を乱すことだから悪いこととして集団内の人間を教育する。教育し、ルール違反者には罰を与えて集団の人間への見せしめにする。つまり『良い事をして悪い事はしないようにしよう』っていう教えの正義は、人間社会が存続していくために必要な仕組みの一つなんだよ」
「…正義って…そんなものなんですか…?」
「うん。だから正義を守らなくちゃいけない必要なんてないよ。無法者として他の人達から疎外されたり、法の裁きが下るリスクはついてくるけどね」
「…たしかに…そうですね…」
「社会を円滑に動かしていくための一般的な正義よりも個人レベルでの話なら自分だけの正義の方がよっぽど大事だと思う」
「自分だけの…正義…ですか……?」
「自分を信じる、ってこと。他人から言われたことを鵜呑みにするんじゃなくて、自分が正しいと思うことを自分で決める。自分の感性を信じて決めた、自分用の信条・生き方。これが自分だけの正義だよ」
 双葉は隣を歩く綾瀬川を見た。綾瀬川の足取りはあいかわらず軽く、前をまっすぐに見て歩いている。彼女の表情は清々しいもので、爽快そうだった。ここは街の中だというのに、そよ風が吹く青い空の下、見渡す限り緑で覆われた草原を綾瀬川は歩いているかのようだった。
 そんな綾瀬川を見て、なぜ彼女が人生を楽しんでいるのかを、双葉は少しだけ理解したような気がした。綾瀬川は自分だけの正義に沿って生きているのだ。
 生き方に一本の芯が通っているから、まっすぐに前を向いて生きていける。考えも気持ちもブレないし、迷わない。後ろをふり返って後悔したりしない。だから清々しい気持ちで、軽やかな足取りで、まっすぐに前へ歩いていけるのだ。
「あれ?話してたらもう君の家まできちゃったね」
 双葉のすぐ目の前に、津山家があった。
「じゃあね。双葉」
「えっ……?あっ……」
 呼び止める前に綾瀬川の姿は見えなくなっていた。







 それから一週間が経った。
 千円札程度ならば拾って自分のものにしてしまう。学校で自分の手柄になるような幸運が起これば、綾瀬川に感謝しつつ受け入れるようにする。
 もちろん、後ろめたさはあった。クラスメイトの中には病気や怪我で学校を休む生徒がちらほらいた。朝のホームルームでクラスメイトが病欠するということを教師から伝られるたびに、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。
 しかし、それでも皆からもらった幸運は自分を潤おすために使う。
 津山双葉は今、強者の立場にあった。双葉は、綾瀬川という超常存在の加護を受けている。それによって他人の幸運を自分のものにできる。これは素晴らしいことだ。双葉には体力も知力も根性もないが、通常ではありえないほどに連続して起こる幸運があれば、それらの欠点は余裕でカバーできるというものだ。







 綾瀬川の協力を受け入れ、他人の幸運を自分のために利用する、という双葉の決心は、その三日後に起こったある出来事のせいで、あっさりと崩れてしまった。
 その日、授業が終わり帰り道を歩いていた双葉は、視界の端の車道中に異常を見つけた。道路上に塗られた中央車線の線引きを明らかに無視して暴走する、自動車である。
「あっ……!」
 言葉通り、双葉が「あっ」と言う間に、暴走車はコントロールを失ってガードレールに突っ込み、轟音が辺りに響きわたった。
 正面バンパーから激突した車のボンネットはひしゃげ、フロントガラスの一面にひびが入っていた。走行車の激突を受けたガードレールは大きく歪み、幸いにして突き破られずに歩行者が車にはねられることはなかったものの、周囲は歩行者達の悲鳴と後続車の鋭いブレーキ音が重なり合って騒然とし、地獄絵図のようだった。
 運転者は死んだのか。
 そんな疑問が双葉の頭をよぎり、かつてない恐怖と混乱と罪悪感で双葉の心が埋め尽くされる。パニックで神経が極度に張りつめ、双葉は不意に吐き気を覚えた。これ以上ここに長くいたら、心が壊れる。皆に罪を責められて、津山双葉は破滅する。理由を考えるよりも先にそう直感し、双葉は運転者の生死を確認することもなく、そこから逃げ出していた。







 その日の夜に放送されるニュース番組の中で、双葉の見た交通事故がローカルニュースの一つとして、ほんの少しだけ流れた。戦々恐々と双葉はテレビのニュースを見ていたが、交通事故の一部始終を知って、とりあえず運転者にひどい怪我がなかったことに安堵した。







 事故が起こってから三日間、双葉は学校を休んで部屋に籠もっていた。親には風邪をひいたと言って休ませてもらっているが、仮病だ。
 親も双葉が嘘をついていることを見抜きつつあるかもしれない「寝ていれば治るよ」と言って布団をかぶり、ベッドの上から動かないことで双葉は抗戦姿勢をとっていた。
 双葉は今、綾瀬川の能力により双葉が望む望まざるに関わらず他人から幸運を奪い、その人を不幸にしてしまう。近づいただけで人を不幸にし、場合によっては殺してしまう極めて凶悪なウイルスのような存在なのだ。
 双葉は他人の幸運を自分のために使っていこうとしていた間、なぜあんなにも心が重苦しかったのかを理解した。ただ 双葉の心が弱いということもあるが、その根本的な原因は、双葉の今までの生き方にまるで沿わないやり方だったからだ。綾瀬川に教えてもらった一般的正義の正体から理屈で他人から幸運を奪うことを正当化し、無理やり自分を納得させようとしていた。
 しかし、それでは心は喜ばない。
 双葉のようなダメ人間には夢のまた夢という栄光の道が閉ざされたのに、双葉はまるで胸のつかえがとれたような気分だった。清々しくさえあったのだ。
 自分の心の声に真剣に、真摯に耳を傾けて、自分は何を大切にし、何をやりたいのかを考える。
 そして自分のやりたいことをやる。
 その何と素晴らしいことか。
 双葉はやっと、自分だけの正義、双葉だけの正義を見つけたのだ。自分だけの正義は、世界のどこかに隠され眠っているような宝物ではなかった。貝が長い時間をかけて少しずつ真珠を創っていくように、今までの人生の中で少しずつ形作られ、自分の内側、魂の奥底に埋まっていたのだ。
 しかし今、胸の内が何かで満たされていくのを双葉は感じている。まるで胸が引き締まるような充実感だ。この熱い気持ち、精神の高揚感があれば、胸を張って迷わず前へ進んでいけるような気がするのだ。綾瀬川がそうしていたように。
 双葉がこの調子で新しい自分に生まれ変わるためには、綾瀬川に、他人から奪った幸運を双葉のために使うのはやめてほしいと言うしかない。
 しかし、それには大きなためらいを感じるというのが双葉の本音だった。
 相手が他でもないあの綾瀬川だということが大問題なのだ。綾瀬川は好意で双葉を助けてくれている。その好意を断れば、ほぼ確実に綾瀬川の気分を害することになるだろう。
「君はいつも悩んでばかりだ。そんなじゃ人生楽しくないよ」
「…えっ…?」
 双葉の後ろから、突然声をかけられた。驚いた双葉がふり返ると、そこには綾瀬川が立っていたのだ。
「あ、綾瀬川さん…!どうして私の部屋に…?」
「お見舞い…ってのは口実で、暇つぶしにね」
 綾瀬川は笑った。
「しかし、君の部屋には本当に何もないんだね。ラジカセも、マンガも、ぬいぐるみの一つでさえ。この部屋、囚人用の牢獄にそっくりだよ」
「……あ、綾瀬川…さん…あ…あの…」
「ん?」
 いつの間にか双葉のベッドの上で両足を伸ばし、うつ伏せになっていた綾瀬川は、双葉の弱々しい声に顔を上げる。
「…も…もう…他人の幸運を…わ、私のために使うのは…や、止めて…ほしいんです…!」
 気がつけば、立ち上がっていた。
 とても綾瀬川の顔を見て言うことなどできなかった。目を閉じて下を向き、喉の奥から搾り出した声は無様に震えていた。
 綾瀬川は何も応えない。
 綾瀬川はまぶたを下ろし、そっと笑みを浮かべた。
「やっぱり私は人を不幸にするだけの化け物か」
 そうつぶやいて、綾瀬川はかすかな自嘲の笑い声を上げる。綾瀬川のつぶやきも、小さな笑い声も、頭が恐怖でいっぱいの双葉には聞こえなかった。
「どうして止めてほしいと思ったのかな?人間社会用の正義のしがらみからぬけ出せなかった?」
 綾瀬川の声には怒りも軽蔑も込められておらず、むしろ楽しげですらあった。その声を聞いて、双葉が恐る恐る綾瀬川を見る。綾瀬川はいつも通り、無邪気な子どものように笑っていた。
「…ち…違うんです…。私、気づいたんです…!他人に迷惑をかけちゃいけないんです…!それが私の生き方だったんです!だ、だから…私のせいで他人が苦しんだり死んだりするのは嫌なんです…」
 この結論は双葉だけの正義だ。誰のものでもない、双葉だけの宝物だ。余分なものでそれを汚すのは、してはいけないことだと思ったのだ。
「それが君の正義なんだね。双葉」
 そう言って、綾瀬川は目を閉じ微笑んだ。満足とさびしさが混ざり合ったような笑みだった。覚悟を胸に抱き、自分に正直に生きるため、自分だけの正義を護るために、双葉は一生懸命闘っていた。
「双葉。君は勇敢だね」
 ベッドに寝転んだまま綾瀬川は言った。
「私に逆らえば殺されるかもしれないのに、それでも敢えて自分の気持ちを伝えたんだ。勇気があるよ。もう分かってるかもしれないけれど、私は人間を殺せる。幸運を全部奪えば不幸への免疫力がゼロになるからね」
 綾瀬川はほがらかな笑顔を浮かべながら語っていた。話の内容は恐ろしいものだったが、声の調子は明るくはずんでいて、双葉を脅迫したり震える様を見ようとするものではなかった。
 のろのろと顔を上げる。いまさら綾瀬川の慈悲を乞いたかったわけでもなく、ほとんど無意識的に行っていた。死んだ魚のように生気を失い虚ろな双葉の目を見て、綾瀬川が微笑む。
「殺さないよ。助けてあげる」
 ようやく今の双葉の頭にも、綾瀬川の言っていることがほんの少しだけ入ってきた。
「お仕事ご苦労様。もういいよ。帰っておいで」
 綾瀬川が声を発した直後、何かが双葉の左肩から床に飛び降りた。それは、小さな綾瀬川だった。双葉の手のひらと同じくらいの大きさで、五本の指から黒い長髪の一本一本まで目の前の綾瀬川と完全に同じだった。服も着ていて、白いワンピースをまとっている。人間大の綾瀬川は黒いワンピースを着ているので、それぞれの大きさと服の色だけが違う。
 今まで双葉は、この小さな綾瀬川の存在に全く気がつかなかった。綾瀬川が右手の手のひらを上にして前に差し出す。指の先は床についていた。小さな綾瀬川は指の上を歩き、手のひらの上に乗ると、足から綾瀬川の手のひらの中に溶け込んでゆき、あっという間に頭の先まで溶けてなくなってしまった。
「これでもう君が他人から幸運を奪い取ることはなくなった」
 綾瀬川は右手を引っ込めながらそう言った。
「もう双葉で遊んでも面白くないし『止めてほしい』なんて言われてちょっとだけムッとしたから、殺しちゃおうとも思ったけれど…君の勇気に負けたよ。すごい勇気だね、双葉。その勇気があれば、なんだってできると思うよ」
 それは一切の裏を含まない、純粋な賛辞だった。綾瀬川から双葉への、心からの贈りものだった。
「私はもう消えるよ。さよなら。双葉」
「え…?あ…!」
 綾瀬川はそう言って立ち上がると、部屋のドアに向かって歩いてゆく。双葉は綾瀬川と話がしたかった。双葉が自分だけの正義を見つけた過程を、綾瀬川に聞かせたかった。双葉だけの正義とはどんなものなのかを、もっと詳しく綾瀬川に教えたかった。そして綾瀬川がどんな反応をして、どんなコメントをするのかを知りたかった。
 綾瀬川はどこか大人びた笑顔を浮かべた。
 今まで綾瀬川が見せていた、無邪気で子どもじみた笑みとは違う、静かで温かみのある、優しい笑顔だった。
「双葉。自分を信じなよ」
 そう言って、綾瀬川はドアを開けて部屋から出ていった。







 綾瀬川が双葉の部屋に現れ消えてから十日が経った。
 双葉は綾瀬川の言葉を信じ、綾瀬川が消えた次の日から学校に通いはじめた。双葉の周りの人間が遭っていた悪い事がたて続けに起こる奇妙な状況が終わり、平和がもどった。
 双葉はいま学校にいるが、前ほど嫌な気分ではなかった。昔と変わらず勉強も運動も苦手のままだが、自分の意見を綾瀬川に通すことができたということと、双葉だけの正義が双葉の心を強くしてくれる。
「津山さん、今日の掃除当番代わってくれないかなー?」
 用事のため双葉が席を立ち教室の中を歩いていると、広田美鈴がすれ違いざまにそんなことを言ってきた。双葉は美鈴の目を正面から見て、顔と気持ちを引き締めた。すると、言いたいことは意外にすんなりと声になった。
「…嫌。私、やりたくない」
「…えっ…?」
 まるで予想外の返答に、美鈴は呆気にとられた。そそくさと教室を出て、歩きながら、双葉は「やった! やった!」と心の中で何度もさけんでいた。
 双葉を奴隷あつかいしてきた美鈴に、双葉は自分の口で嫌だと言うことができた。双葉はまた勝ったのだ。喜ばずにはいられなかった。
 双葉はいつからか、自分を見限っていた。
 「どうせ私なんか」と最初からあきらめて、一人で勝手に絶望していた。今の自分よりもより良い自分になるための努力もしていなかった。
 自分の容姿、学力、運動能力、性格、才能など、いろいろと理由をつけては自分を生まれついてのダメ人間であると決めつけていた。自分の限界を決めつけて、可能性を追おうとしなかったのだ。
 しかし双葉は気づくことができた。
 そうやって自分はこの程度だと思いこんでしまうのは、いけないということ。
 そして『今までとは違う自分に生まれ変わろうという意思』と、『前に進むための勇気』があれば、自分は変わっていけるのだということ。







「双葉。がんばりな」
 中学校の校舎を仰ぐ綾瀬川の口を勝手について出た、独り言だった。
 誰にも聞こえない、双葉にも届かない無意味な言葉だったが、それを言った綾瀬川はなぜか良い気分だった。
 他人に迷惑をかけないという双葉の正義と、自分が生きるためなら人間が破滅しようが死のうがまるでかまわないという綾瀬川の正義。この二つの正義はそれぞれ性質が違いすぎて、絶対に交わらない。双葉と綾瀬川が本心から分かり合えることも、永遠にない。二人はそれぞれ別々の道を歩き、そして互いに離れてゆき、いつかは姿も見えなくなる。
 綾瀬川は校門を出て、双葉が向かった方向の反対に歩き出した。
 双葉は綾瀬川を恨んでいるだろう。憎んでいるだろう。綾瀬川はそれはべつにかまわなかった。もともと綾瀬川の心は、他人からの憎悪で痛みを受けるようにはできていないのだ。双葉が自分を信じ、勇気をもって前に進んでくれたらいいなと、綾瀬川は思っていた。
 その思いを胸にしまい、今日はなにをして暇をつぶそうかなと考えながら、綾瀬川は歩いて行った。



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