かむがたりうた 第壱章「ヒト」




倭は 国の真秀ろば

   たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し



        「古事記」中巻・景行記







……………………………………燃える

燃える

燃える

燃える

燃える火

燃える炎











そう例えるならば

それは灼に燃える炎のようなもの

柔らかに暖かに照らすかと思えば

簡単に人を殺す

人がヒトでなくなった最初の証

そう

それはまるで

まるで……………………………………











男の目に映るのは煌々と燃える炎と一人の少年。

頬に一筋の汗が伝う。

火災…いや、放火か、火を放った少年は平然と笑う。

一面を囲う本棚から本がなだれ落ちる。

炎に囲まれながらも男は黙って佇む。

逃げ場のない場所。

死に直面しながら、不思議と落ち着いていた。

まるでこうなることを知っていたかのように。

対峙。

少年は静かに微笑む。

何かを訴える男。

それに応え、笑って何かを呟く少年。

その言葉は誰にも聞かれることはない。

ゆっくりと歩みを寄せる少年

手を伸ばす

男に向かって。

冷笑。

男の顔を覆う。

口だけでゆっくりと笑う。

全てを嘲笑うかのように。

それが男の最期だった。

床に倒れる音すらも炎に打ち消される。

間もなく男を弔う炎が彼の骸を覆っていった。



燻る焼跡から出て来る少年。

同時にビルの間をぬって昇る朝日に目を細める。

顔を上げ、穏やかな笑顔を見せた。

透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。

「さぁ物語を始めましょう」



まるで…………………………?











果たして

許されるのか?

あなたは

許されるというのか?











人が

神を

語ることが















「古事記、日本現存最古の書物」





 空気は冷たいが木々は確実に春への準備を進めている。





「全三巻の歴史書で成立年は七一二年。奈良時代…元明天皇」





 冬独特の澄み渡った高い空。





「伝承や皇室の系図を稗田阿礼が暗誦し、太安万侶が記した」





 足早に流れて去っていく雲。





「天皇を中心とした国家樹立政策の一環とされているわ」





 下校する人はとうに帰路につき、外から聞こえる歓声も遠い。





「上巻は主に国内における古代の神話を……」





 教室の窓枠を伝ってきた風が静かに髪を撫でる。





 こんな日は





「おやすみ」





  すぱこぉおん





 突然、頭を走った容赦のない痛みに少年は一度閉じた目をゆっくり開いた。

「ハル…痛い…」

「あんたねぇ…ケンカ売ってんの?人が貴重な部活時間割いて勉強見てやってるってのに何が『おやすみ』よっ!」

 先ほど、少年の頭を殴りつけた凶器…もとい古語辞典を右手に持ったままで怒鳴りつける。二人しかいない放課後の教室に遠慮なく大声が響き渡る。

 怒りに頬が紅潮し肩で息をする少女を前にようやく自分の立場を思い出した少年は自分の頭をよしよし、となでて首をひねった。

「貴重なって…部員がハルだけの歴史研究部…」

「貴重なの!それより質問に答えなさい!」

「………何でって、いい天気だから…」

「………今度は角で殴ってあげようか…」

「痛いからやめとく」

 そう言って目を細めると、少年は軽く笑った。怒りに震えていた少女もやれやれ、と息をつく。

「安ー、生きてるかー?」

 音を立て、開いた教室の扉から少年二人が顔を出した。

 少し背の低い方はバスケ部のユニフォームの上にジャージを着込んでいた。透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。

 背の高い方の少年は二月には見るのも寒いノースリーブにハーフパンツのユニフォームを平然と着ている。

「都音(とね)君、泉原(いずみはら)君」

 天川、と呼ばれた少女—天川遥歌(あまかわはるか)は華奢な肩と短い黒髪を揺らし、御覧の通り、と少年を指した。

「あ、トネとイズミだ」

 安、と呼ばれた少年—太榎安(おおえやすし)は声の主をやっと認めると手を振った。

「これから古典の再々々試験だっけ?」

「『再』が一つ足りないわ」

 短めの黒髪にフレームのない眼鏡。顔を上げた少女は校則通りに着こなしただけの緑のブレザーがあつらえたように似合っている彼女は大きな目で軽く苦笑する。都音架織(とねかおる)と泉原智樹(いずみはらともき)は大仰に息をついた。

「バスケ部コンビ、部活は?」

「今から。教室の前通ったらハルさんの絶叫が聞こえたから」

「部長が書類の提出忘れて職員室に呼び出されましてね」

「あはは、言うなよ〜、都音。ウチ歴研と一緒で部員が少なくて一年の俺が部長してるから」

 困った笑顔で泉原智樹は都音架織の肩をポンポン、と叩く。

「あ、学年末の?あたしも出しとかなきゃ」

「おや、しっかり者の歴研部長が珍しいですね」

「都音君、同級生になって一年経つんだからいい加減その敬語やめない?」

 いささかムッとしながら、遥歌は架織に言った。

「すいません、ついクセで」

 架織は悪びれもせず軽く頭を下げる。

「皆さんの中で一番、誕生日遅いから年下ってことでご勘弁願えませんか?」

「え?トネって俺より遅いの?俺、三月十九日だよ」

「勝ちました〜。三月二十一日です」

 一体何に勝ったのか、架織は指を振る。

 智樹がふと机の上のプリントに目をやった。

「古事記?」

「読解がさっぱりだから文学史だけでも叩き込もうと思って」

「もうすぐ二年だってのに進級できるのかね」

「そのための再試験でしょ。それに…」

 安に冷たい視線を向け、ニヤリと笑った。

「いいじゃない『天川先輩』って呼ばれるのも」

「ああいいねぇ『泉原先輩』」

「ち、ちょっとハル…イズミ…」

「お二人ともひどいです!」

 泣きそうな安をからかう遥歌と智樹に、架織が割って入った。

「トネ!」

 天の助けと言わんばかりに、架織に泣きつく安。

「本当のことを言われたら誰だって傷つきますよ!」

 その口から発されたのは追い打ちだった。血を吐きそうなダメージを受け、安はよろめいた。

「確かに幼なじみとはいえ、学校一の才媛に太榎さんごときの専属講師はもったいなさすぎですが…」

 さらなる追い打ちを架織はかけ続ける。

「あら」

 遥歌は目を丸くした。

「そちらこそ、この前の模試の英語、あたしを抜いて全国トップだったじゃない」

「いえいえ、英語だけですよ、天川さんに敵うのは。天川さんこそ古事記の論文、また賞もらったみたいですよ。賞状が職員室に届いてました」

「あら、そう」

 慣れた様子で、遥歌は笑う。

「大学生や大人に混ざって、よくやりますねぇ」

 二人は同時に乾いた笑いを発する。

「怖いんですけど、あの空気」

「俺らには分からない世界だな、社交界か?」

 遥歌と架織を包む禍々しい空気と作り笑いに安と智樹は数歩後ずさった。

「『成績』上流階級の空気か…」





  コンコン





 不意に空け放しだった教室の扉をノックする音が聞こえた。

「旗右(きゆう)先輩!」

 声をあげたのは遥歌だった。

 迷惑そうな顔を何一つ隠すことなく佇んでいたのは長身の青年。色白でがっしりというより、ひょろりという雰囲気が似合う。白い肌に明らかに校則違反の束ねた長めの黒髪が映え、眼鏡の奥で切れ長の瞳が冷たく燻る。かたく結ばれた口元。制服は安たちのと同じ配色なのに着崩されたせいでずいぶんと印象が違う。両手はこれも校則違反の皮手袋で覆われていた。

「ごめんなさい!呼び出した時間過ぎてましたね!安、プリントやっておいて」

 遥歌が間髪いれずに立ち上がる。慌てて鞄から小さな封筒を取り出して、彼の方に向かった。

「弘栄高校の誇る天才が三人そろい踏みか」

 智樹は息をつく。











 旗右栄(きゆうさかえ)は理系の模試では、ほとんど全国トップを独走している。

 文系の天川、理系の旗右、文武両道の都音と、校内では知らない者はいなかった。実際、この三人のおかげで、そう偏差値の高くなかった弘栄高校の受験倍率は跳ね上がっていた。











「安、古事記の成立年は?」

「え、えっと…一七二年!」

「何時代よ、それ!七一二年!もう追試はやめてよ!」

 言うと遥歌は栄とドアの前から消えていった。















「天川さんって…旗右先輩と仲いいの?」

 遥歌が立ち去って取り残された教室で、智樹が呆然と安に問いかけた。

「うん、仲いいっていうか、何か気が合うみたい」

「でも旗右先輩って頭いいから有名だけど、怖いじゃん。俺、あの人が人と話してるの見たことないぜ」

「俺だって最初聞いた時は信じられなかったよ。頭いい同士、話し合うんでしょ。つき合ってるんじゃないの?」

 安は関心のないふうに問題集やらの散らばった机に頭を預ける

「お前、それマジで言ってる?」

「え…うん?」

「頭いいだけなら都音の方がまだマシだろうが」

「…ちょっと…マシって…これでも人よりはモテるんですよ」

 安は遥歌のことを「ハル」と呼ぶ。家が近所でいつも二人でいるため、校内では公認のカップル扱いだが、お互いをよく知る智樹には保護者と子供にしか映らなかった。事実、本人たち……少なくとも安にとっては遥歌は保護者でしかないだろう。

(それはないと思うが…)智樹は言葉を呑み込んだ。

「ま、事情は人それぞれってね」

 一人ごちたため息をつく智樹に安は不思議そうに首をかしげた。















 教室から一番近い階段の踊り場。冷える外気に手を温めながら遥歌はペコリ、とおざなりに頭を下げた。

「すみません、先輩。三年生のホームルームもっと長引くかと思ってて」

「別に」

 謝られていることなどまるで気にせずに、青年は低いが綺麗な声で返す。

 間髪いれずに遥歌の前に大きな茶封筒が差し出された。封筒と頭一つ高い栄の顔を交互に見比べてから、それを受け取る。

 中に書類の束が入っているのを確認して、ほう、と息をついた。

「……確かに頼んだのはあたしですけど、よく手に入りましたね。宮内庁の収蔵品一覧なんて」

 皮肉げな口調だが、感心や疑問よりも好奇心が先立って目は輝いている。

 栄は漆黒の目を訝しげにひそめる。

「助かります。今書いてる論文の資料に欲しかったんです。そうそう忘れるところだった。これ、この間の資料のお礼です。論述大会の副賞ですけど」

 遥歌は事もなげに普通サイズの少し厚みのある茶封筒を渡した。

(お前ら学校で堂々と大枚のやり取りすんなよ)通りすがりの男子生徒が、見ない振りをして気まずい空気に走り去った。

「あぁ、助かる。これで家賃が払える」

「相変わらずですねぇ、プログラムでバリバリ稼いでるのに何にそんなに使うんです?」

「関係ないだろう」

「ええ」

 尋ねられた方は何も言わずに封筒を無造作に内ポケットに押し込む。尋ねた側も返事は最初から求めていなかったのだろう。栄が何も言っていないうちに話題を変えた。

「そう言えば先輩、結構、噂になってますよ」

 遥歌は上目遣いにクスクスと笑って言う。

「全国トップ何度もとっておいて、大学どころか就職もしなかったでしょ?みんな不思議がってるんですよ。あたしが聞いただけでもヤクザの跡取りだとか、病気で余命いくばくもないとか。物理の河合先生なんて、まだ遅くないって推薦状抱えて待ってますよ。もう卒業まで一か月もないのにね」

「……暇な奴らだ」

 吐き捨てるように呟く。

「天川!」

 二人の間に割って入ったのは件の河合教諭だった。栄はビクリと肩を震わせる。

「あ、先生。旗右先輩ならここに…」

「あっさり売るな、天川」

 ボヤく栄を他所に、河合教諭はいつもと違いいやに慌てた様子だった。

「いや、今日は旗右じゃないんだ。お前のクラスの太榎安はまだ帰ってないか?」

「え、ええ…まだ教室に…何かあったんですか?」

 教諭は踵を返して一年の教室のある階に向かいながら叫ぶように言った。









「             」













  そうだ、いい天気

  いい天気だった

  その日は抜けるような冬晴れで











 教室に駆け込む。











 架織の指導の元で文学史のプリントに書き込んでいると教室の扉が開いた。顔を上げると遥歌が真っ赤な顔で息を切らせている。

「やす……し…」

 もともと体力のない遥歌が全力で走って来たのだろう、ぜぇぜぇと肩で息をしながら途切れ途切れに喋る。

「…たい…へん…おじさ……が…万夫(ひろお)…おじさんが…」

「落ち着いてよ、ハル。父さんがどうしたって?」

 顔を上げると遥歌は今にも泣きそうな顔をしていた。

「大学の…図書館が……昨日の夜…火事になって………」

 遥歌の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「……亡く…なったって…」

 遥歌はその場に崩れ落ちた。

 父さんは確かに大学の文学部で教授をしている。

 だが、死んだ?

 父さんが死んだ?

 停止しそうになる頭を必死で巡らす。

 出て来た答えは。















  いつも通りにいい天気で

  こんな日にあたしたちの運命が

  塗り替えられたなんて















「………………………エイプリルフール?」

  ガスッ

「さぁどうぞお連れください。そして今は二月だとこいつに教えてやってください」

 後頭部殴打により伸びてる安の首根っこを捕まえ、教諭に差し出しながら遥歌は言った。

「……あぁ」

 透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。誰も見ていないところで、架織はクスリと笑った。











  そのときまで考えもしなかった

  ヒトの与り知らぬところで

  運命は少しずつ違う色に染められていく

  それに気づかなかっただけだなんて











 遥歌と泉原は、安を乗せた教諭の車を見送る。











  その瞬間まで考えもしなかったんだ















『今日未明、東京都の私立湊大学付属図書館で発見された遺体は同大学文学部教授の太榎万夫(おおえひろお)さん五三歳のものと判明しました。警察は殺人の可能性も視野に入れ、死因を調査中です』

 沈み込む遥歌を放っておけず智樹と架織は部活を休んで一緒に帰っていた。帰り道、架織がスマホのニュースサイトを読み上げ、遥歌と智樹、架織はうつむいた。

「なんか変な気分ですよね、これが太榎さんの父親だなんて」

 架織の呟きに押し黙っていた遥歌が口を開いた。

「安ってお父さんと二人暮らしだったのに、これからどうするんだろう。いなくなったりしないよね。大丈夫だよね」

 立ち止まる遥歌の頭を智樹は軽くなでた。

「大丈夫だよ」











 それは根拠のない言葉。















「え?火事じゃないんですか?…でも…」

 警察署で難しそうな顔をした刑事二人に俺は何ともおぼつかない話をしていた。

「便宜上そう伝えるしかなかったんだ。それは謝る。太榎君は人体自然発火っていうのは知ってるかい?」

「あ、なんかミステリー番組で見たような…全身真っ黒焦げになるんですよね?なのに周りに焼け跡がないっていう…」

「そう、よく知ってるね。今回のお父さんの事件はそれとしか思えないんだ。だから死体も見せなかった。こんな言い方したくはないが、相当気味の悪い物なのでね。希望とあらば写真を見せるが…」

「えっと…遠慮します…」

「骨格から判断された年齢と性別、歯の治療痕などと、今、居場所の分からない大学図書館に自由にできる人間という条件で、太榎万夫さんだと判断させてもらった。それからさっきの太榎君の言葉も根拠になる」

「はぁ。確かに父は昨日帰宅しませんでした。さっきも言いましたが、大学にこもりっきりで普段から滅多に帰って来なかったので」

「ああ。原因が分からないから調査のために葬儀は少し待ってもらうことになるが…それより太榎君はお母さんと暮らしていないようだが親戚のあてとかはあるのかい?」

 小太りの刑事が尋ねる。俺は少し困ったように笑った。

「大丈夫ですよ」











 なんて根拠のない言葉。















 警察署から帰る道で安はかなりの数の着信履歴に気がついた。

(〇六…大阪からか)大阪の叔母だろう。あたりをつけて返信をした。

「もしもし、加奈叔母さんですか?はい、安です。……いえ今帰ってる途中で……はい明日、祝日なのでソチラに伺おうと思ってるので…よろしくお願いします。駿(しゅん)さんにも、よろしくお伝えください。それじゃ」











 電話を切ると叔母の加奈は大きく息をついた。

 思い出されるのはまだ自分があどけなかった頃の兄の…万夫の記憶。確か祖父の葬儀の帰りだった。

「加奈」

 学生服の万夫は加奈の手を引きながら思い出したように笑った。

「お前にだけいいことを教えてやるよ。どんなことでも叶えてやるから言ってごらん。ほら、ほら、言ってごらん」















さぁ集え

ヒトの形をした

化け物たちよ

離さぬように

もがかぬように

この道に集うがいい















「新大阪、新大阪でございます。お降りのお客様は…」

 朝一番に乗り込んだ新幹線に三時間近く揺られ、着いたホームに叔母が待っていた。

「お久しぶりです叔母さん。すみません迎えに来てもらっちゃって」

 久々に会った叔母は随分老け込んだ気がした。父・万夫の妹である叔母は数年前に夫を病気で亡くし、華道や茶道の講師をして息子を—安から見れば従弟を—育てていた。会うのは、その夫の葬儀以来だろうか

「…ええ」













 目を合わせずに、それ以上は何も言わない。

 距離をおいて歩く。

 それはまるで何かを恐れるように。

 大丈夫、俺はやっていける。











 大丈夫

 大丈夫

 大丈夫











 呪文のように唱え続ける

 今までもこれからも















「どーせ安のことだから、ご飯もメンドくさがって食べてないだろうし」

 卵焼きときんぴら以外は冷凍食品の弁当が入った袋を提げ、ゆっくり歩いても五分くらいの道を遥歌は進んでいた。

 久々に来た安の家のインターホンを鳴らす。しばらく待っても返事がないので、寝てるのかと二、三度続けて鳴らしてると、隣の家から壮年の女性が顔を出した。

「安くんなら、朝早くに出かけましたよ」

「え?」

「なんでも大阪の親戚の家に行くとか…」

 遥歌の手から紙袋がこぼれ落ちる。















 新大阪駅から車で三〇分ほどで叔母の家に着いた。

 玄関先で出迎えたのは安より頭一つ分背の高い青年。確かこの春大学を卒業するはずだ。

「ただいま、駿」

「お邪魔します、駿さん」

 太榎の家系の濃い茶の髪を揺らしながら。

「どうぞ『化け物』さん」

「え?」

 安は耳を疑い振り返る。笑顔を絶やさず、駿は続ける。

「せっかく女手一つで育ててくれた母から自立して楽させてあげられると思ったのに、とんだ災難だよ。化け物じゃなくて疫病神かな」

 悪意を隠そうともしない突き刺さる言葉。

「駿!」

 加奈が声を上げる。

「母さんは弱腰すぎるんだ何も知らない化け物なんて怖がることない」

「その…化け物って…」

 安の言葉は無視し、続ける。

「安くん、君、母親生きてるんだよね。そっちを頼るべきなんじゃない?」

  パンッ

 玄関に頬を叩く音が響き渡る。

「黙れ。お前が母さんのことを語るな」

「すぐに手が出るのは誰に似たのかな?」

 ケラケラと笑いながら駿は赤くなった頬を押さえた。

「何が…分かる…?…」

「ち、ちょっと二人ともやめなさい!」

 加奈が間に割り入った。

「駿、言い過ぎよ!安くんはお父さんを亡くしたばかりなのよ。とにかく今日はゆっくりしてもらって、これからのことは明日話し合いましょう」

 駿は軽く舌打ちして踵を返す。

「すみません。ありがとうございます」

 安はニッコリと無邪気な笑顔を見せた。

「え…ええ……」

 その笑顔にビクリと肩を震わせ青ざめたのを安は見逃さなかった。















 昼前の体育館。

 休日部活動中の弘英高校男子バスケットボール部員は順々にシュートの練習をしていた。突然、軽快な音楽が響き渡る。智樹は反射的に振り返る。

「すみません、僕のです!」

 そう言って、軽く頭を下げた。

 透き通る白い肌に横だけ伸ばした茶色の髪と奇妙なほど整った顔だち。都音架織だ。

「電源切っとけ…ってお前そんなストラップつけてたっけ?」

 架織のスマホに吊り下げられた丸いフェルト製の小さな人形を見て泉原は尋ねる。

「あ、昨日からつけてるんです」

「手作りだろ?彼女かぁ?」

 一同は冷やかしの声を上げた。















誰も、まだ知らない。

この後、彼が引き紡ぐ物語を。















 日射しのぬくもりを打ち破る寒風が音もなく通り過ぎて行った。

「それより寒くね?ドア閉めよう…あ」

 部員の一人が体育館の入口に手をかけ重い扉を閉めようとして、目の前をちらつく白い粒に気づいた。

「雪だ」















さぁ集え















「ゆき…雪ですね」

 和服姿の女性が長い黒髪をかきあげながら言った。

「大阪でも降っているのでしょうか」

 そして尋ねた。

「栄」

 聞かれた長髪の青年は答える代わりに黒革の手袋で顎をかいた。

「分かりかねます。気象予報士の資格は持っていませんので」

 真顔の返答に女性はクスクスと笑った。















さぁ集え















 白く瞬く雪が、君との淀みも洗い流してくれるのだろうか

 遥歌は手で受け止めては溶けて行く雪に涙をこらえた。

 ただ ひたすらに

 降りてくる 雪が

 君が 今は 憎い















 テーブルに夕飯が並ぶ。

「いっただきまーす!ってあれ?遥歌は」

「論文書くからご飯いらないって」

「またぁ?」

 遥歌の姉と母親は呆れ気味に笑った。

「あ〜相変わらずオタクだねぇ、ウチの妹は」

「唯一のシュミなんだから、そっとしておいてあげなさい」

「だってオタクじゃない!しかも古典オタク!恥ずかしくて友達にも言えないわよ!」

 姉は箸をくわえながら言った。

「でも遥歌って論文の賞金どうしてるんだろ。使っても貯金してもいないみたいなのに…まさか男に貢いだりしてないわよねぇ」

 当たらずしも遠からずの憶測。











「クシャン」

 栄は鼻をすすった。

「風邪…か。病院も薬も高くつくし…ビタミンC…蜜柑でも買っていくか」











 その日は月が高かった。

「あ……」

 これでもう何回目だろうか。折れたシャープペンの芯をぼんやりと見つめ遥歌は手を止めた。

 レポート用紙を投げ出してベッドに沈む。ぼやけた視界に天井の模様だけが映る。

(…………だめだなぁ、あたし)

 疲れているのだ、と思う。いろんな意味で。

 こんな時すぐに自問自答を始めてしまう癖が大嫌いだった。

 何か気を紛らわせないか、と仰向けに寝転んだままで届く本棚に手を伸ばす。手がつかんだのは、何てことのない中学に入る頃には既に読み古していた古代文学の入門書だった。

 心の中でため息をつきながらも、とりあえずページをめくる。今となっては自分の名前や誕生日のように暗誦できる用語や年代の数々が目に映っては通り過ぎて行く。

 ふとある項で手が止まった。細い指がひとつの人名をなぞる。まだ小学生の頃だったとは思うが、初めてこの名前を見た時には不思議でたまらなかったものだ。安と二文字同じと言うだけのことが。軽く笑って本を置く。

「古事記の編者……太安万侶、か」

 誰にも聞かれない声が消えると共に、浅い眠りに誘われた。

「ってあたしが何で安のことでこんなに気をもまなきゃならないのよ!」











「何でウチの妹は論文書くのに奇声あげるの?」

 ハンバーグを口にしながら、ダイニングの向かいにある遥歌の部屋に目をやった。

「さぁねぇ」

 母親も心配げにサラダにマヨネーズをかけた。















 何もない空間。

 真っ白な空間。

 辺りを見渡すと、人影があった。

「父さん!」

 父親の姿は踵を返し遠ざかろうとする。

「待って」

 慌てて服の裾をつかんだ。

「放せ!」

 万夫が叫ぶ。

「化け物が!」

 振り払われた手を見つめた瞬間

 目が覚めた。











『化け物が』











夢か

そうだよな











夢でも父さん

ようやく貴方に会えた











大丈夫

大丈夫











 布団の中にうずくまって唱え続ける。

 落ち着くと客間の隣のリビングから何か話している声がした。

「やっぱり一緒に暮らすなんて無理よ」

 少し抑えた声の相手は駿だろう。

「あの兄さんの子供だって…あの呪われた能力を持っているだけで気味が悪いのに」





 呪われた能力?





「あの子自分の父親が死んだのに悲しそうな顔一つせず笑ってるなんて」











泣けばよかったのですか?











地に這いつくばって

涙が涸れるまで

泣いてわめけばよかったのですか?











俺は化け物なのですか?











例えばマンガやゲームの怪物だって

きっと自分が怪物だなんて思って生きてない

そんな風に

自分が気づいてないだけで

ヒトから見れば

俺は醜い化け物に見えるのだろうか

自分では分からないから

いつも人と比べて周りを見て

化け物になっていないと

その度安堵する











昼は肩寄せ合って

明るい方へ明るい方へと飛びたがるクセに

夜闇の中でしか心は安らげない

それはきっと

化け物であるかもしれない

自分の姿を隠すため











暗闇の中

この醜い姿を見ないでと叫ぶ

それは炎の灯りを知らなかった頃に

人がヒトであった頃に











神が人にかけた

呪いのように

見えはしないか?



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